【主日礼拝メッセージ要約】                                   2007年7月22日                                                   

「御名のためなら」 

使徒言行録21章7-14節

高橋淑郎牧師

 

 著者はここでフィリポの家庭内のことを伝えています。それはパウロをどれほど喜ばせたことでしょうか。フィリポは執事として忠実な奉仕の日々の中で、使徒たち、長老たちが福音のために命を賭して働いている姿に感動して、彼は「福音宣教者」として献身しました。それだけではありません。4人の娘さんたちにも福音を語り聞かせ、信仰者として育て上げ、ついにその子どもたち皆も、神に愛された父親の背中を見て、神を愛するとはどういうことかを学んだのでしょう。彼女たちも、「預言者」として献身していたのです。

 わたしたちは未信者や求道中の方々に、「わたしを見ないで、キリストを見てください」ということがあります。一見謙虚な言葉のようですが、実はどこかで責任逃れをしているのです。パウロは違います。諸教会に宛てた手紙の中ではっきりと、「わたしに倣う者になりなさい。」と勧めています。こういう言葉を聞いて、「パウロはキリストを語らず、自分を宣伝している。」と受け取るとすれば、それはとんでもない誤解です。パウロの目線はしっかりとキリストに向けられていましたから、こう言いきることができたのです。「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」(气Rリント11:1)と。

 例の七人の一人フィリポもそうです。彼もまた四人の娘さんたちに、彼自身しっかりとキリスを仰ぎ見ながら、「・・・わたしに倣う者となりなさい」と教え導いたのに違いありません。彼女たちも或いはその成長過程で反抗期もあったでしょう、娘盛りですから、自分の趣味や楽しみに興じた時期もあったかもしれません。しかし、信仰一途な父親の背中を見ている内に人生を踏み外すこともなく、父親に倣う者となり、救われた喜びを一人でも多くの人に伝えたいと、福音宣教に立ち上がる彼女たちとなったのではないでしょうか。これにまさる子育ての成功はありません。

 わたしたちも私たちの家族を本当に愛しているのであれば、友だちを、恋人を、伴侶を、また子どもの将来を真剣に考えるのであれば、「主の御名のために」、まず私たち自身が真実にキリストを信じ、大胆に「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」と言うべきです。

 

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 【主日礼拝メッセージ】                                 2007年7月22日                                                   

「御名のためなら」 

使徒言行録21章7-14節

高橋淑郎牧師

 

 船は再びティルスの港を出て、プトレマイスに着き、ここでも主を信じる仲間に合い、その家に泊りがけで旧交を温めることができました。翌日、ようやく最後の停泊地であるカイサリアの港に到着しました。思えばフィリピの港から、エーゲ海を横断してトロアスに、トロアスからアソス、更にミティレネ、サモス、ミレトス、パダラ、そしてティルスからプトレマイス、カイサリアへと、ずいぶん長い船旅でした。ここから懐かしのエルサレムまでは、後130kmほどです。結構な距離に思えますが、フィリピからこのカイサリアまでの船旅は、実におおよそ2千kmに及ぶものでした。それを思えば、パウロたちにすれば、後一息と言える距離でしょう。この町には、「例の七人の一人であるフィリポ」がいました。「例の七人」とは、初代エルサレム教会で選ばれた7人の執事の中の1人(使徒言行録6:3)のことです。そのフィリポが今では、伝道者として献身しています。パウロたちは、そのフィリポの家に数日間泊りがけで働くことにしました。働くといっても、テント作りではなく、福音宣教という仕事です。

 著者はここでフィリポの家庭内のことを伝えています。それはパウロをどれほど喜ばせたことでしょうか。フィリポは執事として忠実な奉仕の日々の中で、使徒たち、長老たちが福音のために命を賭して働いている姿に感動して、彼は「福音宣教者」として献身しました。それだけではありません。4人の娘さんたちにも福音を語り聞かせ、信仰者として育て上げ、ついにその子どもたち皆も、神に愛された父親の背中を見て、神を愛するとはどういうことかを学んだのでしょう。彼女たちも、「預言者」として献身していたのです。

 わたしたちは未信者や求道中の方々に、「わたしを見ないで、キリストを見てください。」ということがあります。これって、一見謙虚な言葉のようですが、実はどこかで責任逃れをしているのです。その点、パウロは違います。何と大胆な、と思えるほど、教会に宛てて書いた手紙の中ではっきりと、「わたしに倣う者になりなさい。」(气Rリント4:16,11:1、フィリピ3:17、气eサロニケ1:6,2:14)と勧めています。こういう言葉を聞いて、「パウロはキリストを語らず、自分を宣伝している。」と受け取るとすれば、それはとんでもない誤解です。パウロの目線はしっかりとキリストに向けられていましたから、こう言いきることができたのです。「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」(气Rリント11:1)と。

 例の七人の一人フィリポもそうです。彼もまた四人の娘さんたちに、彼自身しっかりとキリスを仰ぎ見ながら、「・・・わたしに倣う者となりなさい」と教え導いたのに違いありません。彼女たちも或いは、その成長過程で反抗期もあったでしょう、娘盛りですから、自分の趣味や楽しみに興じた時期もあったかもしれません。しかし、ここというところでは、信仰一途な父親の背中を見ているうちに人生を踏み外すこともなく、父親に倣う者となり、救われた喜びを一人でも多くの人に伝えたいと、福音宣教に立ち上がる彼女たちとなったのではないでしょうか。これにまさる子育ての成功はありません。

 わたしたちも私たちの家族を本当に愛しているのであれば、友だちを、恋人を、伴侶を、また子どもの将来を真剣に考えるのであれば、キリストにあって、もっと大胆に「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」と言うべきです。

 

 さて、パウロとその一行はこうした人々と信仰の交わりを喜んでいましたが、ある日、エルサレムからやってきたアガポという預言者が象徴的な演技と共に、聖霊に導かれながら、パウロの受難を予告しました。そういえば、カイサリアに来る前、ティルスでも聖霊の示しを受けたということで、同じようにパウロの受難を予告した人がいました。

 一度ならず、二度までも主にある預言者が告げる言葉に、パウロの同行者たちの心も浮き足立って、カイサリア教会のメンバーと一緒になってパウロに、「エルサレムへ行く計画を断念するように」と説得を始めました。しかし、パウロはどうしてもこの計画をやめることはできないと譲りません。もちろん、エルサレムでは何が自分を待ち受けているかということについて、パウロ自身が既に聖霊によって示しを受けていました。しかし、聖霊は、だからエルサレムに行くな」とはお告げになってはいないのです。彼は言います。「主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです」と。パウロを愛する人たちは、パウロがエルサレムで受ける苦難についてのみ、聖霊の導きを受けていましたが、パウロは、「だから、イエス・キリストの証人として、エルサレムへ行け」という、具体的な促しを受けていたのです。これはパウロだけに与えられた示しです。パウロは「行きます。」と決断し、応答をし、ここまでやってきたのです。

 

 福音のためには自分の人生の全てを献げ、それに命をかける人、こういう人を「伝道者」と言います。「福音」とはどういう意味でしょう。福音とは、神の子イエス・キリストが人間の姿でこの世にお生まれになり、全世界の罪びとを救うために、その身を罪の贖い代として、十字架の上で死んでくださったこと、三日目に甦って、今も生きて働き、信じる人を救い、永遠の命を与え、天の御国にまで迎え入れてくださるという、この上ない幸いなる確かな約束のメッセージのことです。使徒パウロは、こんなに尊い救いに与っていますから、そしていつか自分も天の父なる神の御許に引き上げて頂けるという希望がありますから、この福音をもたらしてくださった主イエスの名のためならば、縛られることも、死ぬことも覚悟していると言えたのです。

 

 以前皆さんにお話したことがありますので、覚えておられることでしょうが、昔、アメリカのある私立大学の建物の一角に、「そして、次は?」という看板がかかっていました。それはこの学校の創立者が座右の銘にしていた言葉です。彼がまだ若いころ、ある有名校に入学志願をしました。面接試験のとき、女性試験官は若者に一つの質問をしました。「あなたはこの学校になぜ入りたいのですか?」。すると、彼は待ってましたとばかりに、優等生の答えをしました。先生は、優しい眼差しで若者の答えを聞いていましたが、「この学校を卒業した後、あなたは何をしますか?」と問いかけますと、これも彼は予想していたようで、そつのない答えが帰ってきました。頼もしそうに聞いていた先生は、更に、「で、その次に何をしたいですか?」と質問は続きます。彼は問われるままに、自分の人生プランをありったけ並べて答えました。これでおしまいかと思っていますと、先生は「で、その次に何をしますか?」と問い続けます。これこれの仕事をしたい。小金が貯まったら何か事業を起こしたい。施設に寄付することも忘れていない。恋をして、実れば結婚したい。子どもの成長と躾と教育にも心をかけ、精一杯の愛情を家族に注ぎたい。最後は良い老後、悔いのない人生だったなあといえる一生を送りたい。と答えました。これで面接はうまく言ったと彼は満足げな顔で先生の顔を眺めていました。それでも、面接は終わりません。「で、その次は?」と、質問が続きます。彼はちょっと、間を置いて、「静かに、安らかに一生を閉じたいです。」と答えました。先生は大きくうなずいて、「で、その次は?」と質問はまだ続きます。彼はいよいよ困ってしまいました。「その次は?」と言われても、死んでしまったら、その後のことはわからないのです。随分長い沈黙の後、彼は蚊の鳴くような小さな声で、「わかりません」と、答えました。筆記試験ではどの科目も満点の彼です。小論文も申し分のない内容です。自信満々で望んだ面接で、彼は初めて、「分かりません」という回答をしてしまいました。そのとき、先生は、「分からない?どうして、あなたの人生にとって最も大事な時の備えができていないとは驚きです。人は死んでそれで終りではないのです。神のみ前に出る備えができていないとしたら、あなたの人生は根底から崩れ落ちてしまうのですよ。」と指摘されました。彼にとって、それまでは神とか、聖書とか、信仰とかは人生の中のほんのアクセサリーでしかありませんでした。しかし、この時初めて、イエス・キリストなしの人生に何の意味もないことを知りました。イエス・キリストの御名に頼ることを知らないで人生の終りを迎えることほど不安で、心細いこと、いや、恐ろしいことはないことを思い知ったのです。

 

 皆さんはいかがでしょうか。パウロのような勇気はなくてもイエス・キリストの御名のためならば、というところに立って、日々を送るようになさってください。そうすれば、あなたの人生は決して空しいものにはならないのです。 祈ります。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

 あなたのメッセージを感謝します。パウロは主イエスの名のためなら、縛られても、死ぬことも覚悟していると明言しました。世の中には崇高な目的のために、あえて死の道を選び取る人はいないわけではありません。悪の限りを尽くした人でも、従容として処刑台に上って行くものもいないわけではないと聞きました。パウロもそのような英雄気取りで命を粗末に考える一人なのでしょうか。聖書を読むとパウロほど命を大切にする人はいません。そのパウロが縛られることも死ぬことも覚悟の上と言ったことに、厳かなものを感じます。パウロは、自分があなたに逆らい続けていたとき、既にあなたの独り子イエスさまが、そのパウロの罪のためにも贖いの死を遂げてくださっていたことを知っていたからです。自分のために死んで甦ってくださった方のために、生きるにしても、死ぬにしても全てを委ねようという決心ができていたからでした。彼にとって、イエス・キリストの御名が全てだったからでした。主よ、私たちの人生もまた、パウロの信仰に学び、あなたの御名のために生き、あなたの御名をほめたたえながら、人生を全うさせてください。

 私たちの主イエス・キリストのお名前を通して、この祈りをおささげします。アーメン。

 


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