【主日礼拝メッセージ要約】 2007年7月29日
高橋淑郎牧師
ここに言う「旅の準備」とは、「荷造り」とか、「馬の手配」という意味があります。パウロにとって、エルサレムに向かう最後の旅は、覚悟していたとは言え、今までにない緊張を強いられる旅です。今や外面の旅支度に心を寄せる時ではないのです。祈りこそパウロが携えるべき唯一の備えでした。ゲッセマネの園における主イエスの祈り(マタイ26:39)を模範として、信仰の勝利を得させてくださる聖霊の助けを求めて祈ったことでしょう。まさに、この祈りなくして、エルサレムに向けての旅の準備とはならなかったのです。
今朝、わたしたちは主に礼拝をささげています。礼拝プログラムの全面が聖書を中心として成り立っています。人間の思いが入り込む余地などありません。この聖書は私たちに、礼拝には二つの意味があることを教えています。一つは「聴け」と言う招きです。もう一つは、「行け」という派遣です。
「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。・・・わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28−30)と。
私たちは沢山のストレスを抱えて疲れ、人生の重荷や絡みつく罪の重荷に呻いていました。しかし、主の御許に導かれた今は癒され、心も軽くなりました。そこで新しい週の旅路に散らされていく私たちに、主イエスは言われます。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたはいって、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、・・・わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:19−20)と。
これこそ私たちに求められる人生の旅支度なのです。私たちにとって、これから始まる一週間は、パウロほど緊張を強いられるものではないかもしれません。でも、ある人にとってはパウロ以上の試練が待ち受けているかも知れません。だから礼拝どころではないと言うべきではありません。だからこそ、まず主の御許にきて、み言葉に聴き、明日のための旅の備えが不可欠なのです。
高橋淑郎牧師
いよいよ第3回伝道旅行も大詰めになりました。エルサレムまでおおよそ130Kmの道のりです。当時旅なれた人でも、一日の歩行距離は約45−50kmだったと言われていますから、2泊3日の旅路であったと思われます。一晩はどこかで野宿し、次の一晩だけ「ずっと以前から弟子であったムナソンという人」の家に泊めてもらいました。カイサリアからついてきた人たちがそのように手配してくれていたのです。「ムナソンは、キプロス島の出身で、ずっと以前から(キリストの)弟子であった」ということですが、「ずっと」とは、どれくらい以前からの信者でしょうか。11:20の頃に救われた人かもしれません。更に以前となれば、聖霊降臨をきっかけに救われた3千人の中の一人かもしれません(2:41)。また「ムナソン」という名は当時平凡なギリシャ名で、ローマ式に発音すると、「ナソン」、ユダヤ人の間では、「ヤソン」と呼ばれていました。ユダヤ式の呼び名から推測すると、「救い」という意味であったかもしれません。いずれにしても異邦人キリスト者です。エルサレムに帰ったら、間違いなく「投獄と苦難とが待ち受けている」(20:23)と聖霊によって知らされて、緊張高まるパウロにとって、快く旅人をもてなしてくれるムナソンのような信仰の人の家で一夜を明かせたことは、どれほどの慰めだったことでしょう。
前置きが長くなりましたが、この16節の小さなエピソードを心に留めて、今日の15節を中心とした本題に入ってまいりましょう。「数日たって、わたしたちは旅の準備をしてエルサレムに上った。」と著者は書いています。「旅の準備をした」とは、「荷造りをした」とか、「馬の手配をした」という意味があります。今なら、「スーツケースに着替えを詰めた」とか、「乗り物の切符の手配をした」ということです。思えば、パウロはこれまで三度にわたって、西アジアから、ヨーロッパにかけて旅を繰り返しています。ある聖書学者はさまざまな遺跡や古文書、更には有形無形の資料を基に調査した結果、第1回伝道旅行(使徒言行録13:1−14:23。紀元45−49年)では4年の間に約1,040Km、第2回(同15:36−18:22。紀元50−53年)では3年の間に約1,460Km、第3回(同18:23−21:18。紀元53−58年)では5年をかけて約1,600Km、合計12年の間に約4,100Kmもの道のりを旅から旅を繰り返して、福音宣教と教会形成のために全力を注いできました。旅慣れたパウロはこれまでこういう旅支度を数え切れないほどしてきました。何を今更と言いたくなる15節の言葉です。どうせなら、第1回伝道旅行の出発のときに書くべきではなかったでしょうか。いったいこの時パウロたちはどんな準備をしたというのでしょうか。そうです。準備は準備でも、この言葉には何かもっと深い意味があるのではないでしょうか。
先ほども申しましたように、特にパウロにとって、カイサリアからエルサレムに向かう、この最後の旅は、覚悟していたとは言え、今までにない緊張を強いられる旅なのです。ティルスでも、カイサリアでも、霊感の鋭い信者から、「エルサレムに行くのは危険だからやめるように」、と警告されていました。それでも行かなければならないのです。これはパウロ一人の決断を超えるもの、聖霊ご自身がそのように彼を駆り立てているからです。並々ならぬ覚悟が求められる旅路なのです。もはや、スーツケースの中に何を入れて行こうか、どんな乗り物の切符の手配をしようかという、外面の旅支度に心を寄せる時ではないのです。
主イエスが地上におられたとき、その弟子たちを宣教に遣わすにあたって、その派遣式において語られた式辞を思い起こしましょう。主はあの時こう言われました。「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。・・・帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。」と。
パウロはこの主のご命令を忠実に果たしながら、これまで伝道の旅を続けてきました。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れていきませんでした。袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行きませんでした。ですから、彼にとって、これまでの旅も、これからの旅においても、「荷造りをした」とか、「馬の手配をした」とかいう準備は、準備の内に入りません。むしろ、彼のこれからの旅の備えとして、どうしても持って行かなければならないものがあります。それは、ゲッセマネの園において主イエスが祈られたあの祈りの言葉です。主はあの日、あのゲッセマネの園でこう祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)というあのみ言葉です。これこそパウロが、またルカをはじめ、パウロに同行する仲間たちが携え行くべき唯一の備えでした。あのゲッセマネの園で祈られた主イエスの祈りを模範として、彼らもまた主にあって信仰の勝利を得させてくださる聖霊の助けを求めて祈ったことでしょう。まさに、この祈りなくして、エルサレムに向けての本当の準備とはならなかったのです。
今朝、わたし達は今日もここ、仙川キリスト教会の礼拝堂に導かれて主に礼拝をささげています。礼拝の中心は何と言っても聖書です。礼拝プログラムの全面が聖書を中心として成り立っています。人間の思いなど入り込む余地はありません。この聖書は私たちに、礼拝には二つの意味があることを教えています。一つは「聴け」と言う招きです。もう一つは、「行け」という派遣です。私たちはまず、主のみ言葉に聴きましょう。主イエスは今日も私たちに語りかけておられます。
「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28−30)
私たちはここに導かれてくるまでは沢山のストレスを抱えて疲れていました。また、人生の重荷や絡みつく罪の重荷に呻いていました。しかし、主の御許に導かれてきた今は癒され、心も軽くなりました。ここで、癒され、軽くされた私たちは、次にこの礼拝堂から散らされていくのです。散らされるにあたって、祝祷を受けてわたし達は派遣されて行きます。主イエスは言われます。
「 わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:19−20)と。
これこそ私たちに求められる人生の旅支度なのです。私たちにとって、これから始まる一週間は、パウロほど緊張を強いられるものではないかもしれません。でも、ある人にとってはパウロ以上の試練が待ち受けているかも知れません。だから礼拝どころではないと言うべきではありません。だからこそ、まず主の御許にきて、み言葉に聴き、主の派遣のみ言葉を頂き、主の導きのままに、ここから遣わされていくという、明日のための旅の備えが私たちには不可欠なのです。 祈りましょう。
天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。
わたし達は、今この朝、「旅の準備をして」という主題と共に、あなたのメッセージをいただきました。感謝します。
あの旅から旅の半生を送り、旅というものに関してエキスパートであった使徒パウロが、その締めくくりとも言うべき、カイサリアからエルサレムに向けて出発しようとしたあの日、なぜ改めて、15節のような著者の解説が必要だったのか、わたし達は不思議でなりませんでした。しかし、今分かりました。あの日、パウロは主イエスの名のためなら、縛られても、死ぬことも覚悟していると言葉にしたことを、そしてそれは聖霊の促しであったということを確認したかったのです。パウロにとって、あの旅の準備は、ゲッセマネの主イエスからの招きでした。あのゲッセマネの主イエスの御許にあって、彼は彼の心の不安、恐れ、疲労感というものの一切から解放されました。そして、復活のキリストが、「行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。・・・わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。」という派遣の式辞を思い起こしたことで、彼の心は定まりました。
主よ、わたし達もまた、この朝、「疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとに来なさい。」というみ言葉と共に、あなたの主宰される礼拝に招かれ、あなたの御許にこそ真の癒しと解放のあることを学びました。学んだだけでなく、体験することが赦されました。
そしてわたし達は今、復活の主であるあなたの派遣のお言葉を頂きましたから、あなたが祝祷と共に、お遣わしになりますから、そして何よりもあなたが共にいて下さいますから、わたし達はこの悪しき世にも出て行く備えができました。あなたを讃美します。
私たちの主イエス・キリストのお名前を通して、この祈りをおささげします。アーメン。