【主日礼拝メッセージ要約】                                   2007年819                                                   

話をさせてください  

使徒言行録21章27-40節

高橋淑郎牧師

 

 主イエス・キリストは十字架にかけられるかなり前に、「・・・わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証をすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」(マタイ10:18−21)と約束して下さったし、また復活の体を弟子たちにお示しになられたときにも、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)と約束して下さいました。そして神は約束どおりに聖霊を下して教会を建てさせてくださいました。ですから、パウロはこの聖霊に導かれて、千人隊長に、「話をさせてください」ということができたのです。
 パウロが千人隊長に願い出たように、あなたは毎朝神への祈りの中で、「今日という日に、わたしが出会うことになっている人がいたら、その人にあなたの話をさせてください。」と祈り求めているでしょうか。あなたにとって、もしかして、キリストを証するために残されている時間はそう長くないかもしれません。明日ではあなたのこの世の人生は終わってしまっているかもしれないのです。いや、自分にはこの世で生きて行く十分な時間が残されていても、もし、あなたがその祈りを忘れて、与えられている機会を用いなかったために、あなたを通して福音を聴いて救われるはずの人が、そのチャンスに恵まれないまま息絶えて永遠の滅びに落ちてしまうかもしれないのです。
まだイエス・キリストの福音がよく理解できない人、イエスを救い主と信じるに至っていない人々に申し上げたいです。あなたの人生を一番心配しているのは、他ならぬあなたの心です。霊です。そのあなたの内なる心に、あなたの内なる声が聞こえてきませんか。「わたしにもイエス・キリストの物語を聞かせて!」という声が。

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【主日礼拝メッセージ  

                      

話をさせてください  

使徒言行録21章27-40節

高橋淑郎牧師

 世の中には善意の誤解と悪意ある誤解をする人がいます。善意の誤解は双方の努力によって、比較的容易に関係を回復することができます。しかし、悪意をもって誤解する人には難しいものがあります。17−24節で問題になっていたのはどちらかというと善意から出た誤解です。キリスト教会のメンバーの中に、「パウロは旧約聖書を無視して、律法に違反しているのではないか。」と疑いを抱く人がいました。これに対してパウロは、エルサレム教会の指導者たちからの助言もあって、教会の中にいる、神への特別の献身者4人が神殿で受ける祝福の儀式に立ち会い、必要経費を出してあげることにしました。その結果、パウロはモーセの律法に違反していないし、旧約聖書の教えに忠実であることが証明されました。誤解していた人たちも、これで納得したでしょうから、問題は一件落着です。
ところが、今日の聖書箇所を読むと、意外なところから新たな問題が起こり、それがもとでパウロは囚われの身となってしまいました。事件の発端は29節に記されているように、キリスト者ではないユダヤ人達の全く一方的な誤解です。彼らはパウロがエフェソにいた頃から、その伝道を快く思わず、何かと妨害していましたが、そのエフェソで回心した異邦人トロフィモがパウロと共にエルサレムの市内を歩いているのを見て、てっきりエルサレムの宮に連れ込んだと思い込んで、今回の事件を引き起こしました。全くの憶測に基づいた誤解です。彼らは叫んでこう言いました。「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、いたるところで誰にでも教えている。その上、ギリシャ人をこの境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」と言って、そこにいた全ての群衆を扇動しました。


 エルサレムはとても神聖で重要な意味を持つ都でした。この機会に神の宮と呼ばれるエルサレムの神殿について、その構造を説明しておきましょう。境内の中央には最も神聖な宮があり、そこには幕で仕切られた「至聖所」と「聖所」と呼ばれる二つの部屋があります。その宮を取り囲むように、祭司のほか立ち入ることの許されない「祭司の部屋」があります。更に外側に「イスラエル人の男子の庭」、「イスラエル人の女性の庭」があり、一番外側に「異邦人の庭」がありました。別名「外庭」と呼ばれていました。このユダヤ人と異邦人を区別する隔ての壁があり、その所々に警告の意味で、ギリシャ語とラテン語で、「異邦人は、神殿に巡らされた隔ての垣の中に入ってはならない。これを犯す者は死をもって罰せられる」と、7行の文字が朱色で彫刻されていました。現在はイスタンブールの博物館にギリシャ文字のものが所蔵されているそうです(長さ85cm、高さ57cm、厚さ36.8cm)。ユダヤ人の側がそう言っていたのか、それとも異邦人が名付けたのか、その壁は「敵意という隔ての壁」(エフェソ2:14)と呼ばれていました。同じ神を信じ、礼拝をささげるはずが、差別を助長する場となってしまっていたからです。真にユダヤ人にとって、それは差別の象徴であり、異邦人にとって、憎悪の対象そのものでした。


 この騒ぎは、パウロがこの隔ての壁を越えてギリシャ人を連れ込んだと思い違いをしたキリスト者でないユダヤ人たちによって引き起こされました。それも事実を捻じ曲げた、悪質としか言いようのない意図的な誤解です。今、「キリスト者ではないユダヤ人たち」と言いましたが、彼らは無宗教の人でも、無神論者でもありません。彼らはれっきとしたユダヤ教徒です。この世に自分たちほど聖書をよく読み、よく知っている神の僕はいないと、思い込んでいた人たちです。それほど聖書に詳しい彼らが、どうしてこともあろうに神の僕であり、聖なる神の働き人であるパウロを訴え出るようなことをしたのでしょうか。ここが宗教の世界の七不思議です。神を信じると言いながら、自己中心的な神観を持ち、独善的な聖書の読み方をしてしまうことによって起こり得る罪です。


 宮の門という門は直ちに閉ざされ、パウロは暴徒と化した群衆によって宮から引きずり出されて異邦人の庭で、殴る蹴るの暴行を受けました。宮の北西に位置するところにはアントニアの塔があり、そこには治安のためにユダヤ人を絶えず監視しているローマ軍が駐留していました。騒ぎを聞きつけた千人隊長は兵士を引き連れて直ちに出動しましたが、騒動の原因を突き止めようにも、群衆はただあれこれと喚くばかりで、さっぱり要領を得ません。本来ですと、もっと時間をかけて事の真相を調査すべきですが、千人隊長は一番安易な手段で事態の打開を図りました。その方法とは、殴る蹴るの暴行を加えた加害者の取調べではなく、被害者のパウロを逮捕・拘禁し、兵営に拘留してしまいました。大勢の者を取り調べるよりも一人だけを取り調べる方が簡単だからです。


 その間、パウロは一言の弁明もできない状況にありました。しかし、担ぎ上げられながら兵営の中に連れて行かれそうになった時、ようやく口を開くことができました。パウロは、千人隊長がギリシャ系の出身であると見抜いたのでしょうか、ラテン語でなく、ギリシャ語で、「一言お話してもよいでしょうか。」と発言の許可を求め、引き続き、「どうか、この人たちに話をさせてください。」と願い出ました。もし、わたしがパウロの立場にあったら、他の誰でもなく、千人隊長に話を聴いてもらいたいのです。自分が無実であること、なぜ暴行を加えた彼らではなく、打ち叩かれ、蹴られた自分を鎖につなぎ、取り調べようとするのか、と恨みがましく訴えたことでしょう。


 しかしパウロは、「同胞に話をさせてほしい」と言うのです。パウロは第3回伝道旅行の帰り道、再三にわたって、自分がエルサレムに帰りついたら、非常な危険が待ち受けていることを聖霊によって示されていましたし、同労者の数名からも、それを裏付けるような予告を受けていました。ですから、パウロにとってユダヤ人の暴行と、ローマ兵による逮捕・監禁は覚悟の上です。では、いったいパウロはこの同胞に何を話したいのでしょうか。キリストを証することです。自分を救ってくださったばかりか、今日まで支え、導いてくださった神の愛を証したいのです。「証」のギリシャ語はマルテュリアと言います。「殉教」という意味もあります。パウロはこの時とっさに考えたのです。もしかしてローマ軍の兵営に連れて行かれたら、十字架に上げられた主イエス・キリストのように、このまま処刑されるかもしれない。いやその前に拷問を受けることがあったら、今は衰弱しているために体力がもたず、死んでしまうかもしれない、それなら、まだ息のある今の内に、一言でもイエスの福音を証しておきたい、そう考えたのではないでしょうか。(使徒20:24)

 主イエス・キリストは十字架にかけられるかなり前に、「・・・わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証をすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」(マタイ10:18−21)と約束して下さったし、また復活の体を弟子たちにお示しになられたときにも、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)と約束して下さいました。そして神は約束どおりに聖霊を下して教会を建てさせてくださいました。ですから、パウロはこの聖霊に導かれて、千人隊長に、「話をさせてください」ということができたのです。


 仙川キリスト教会の皆さんにお尋ねします。パウロが千人隊長に願い出たように、あなたは毎朝、「今日という日に、わたしが出会うことになっている人に、あなたの話をさせてください。」と祈り求めているでしょうか。あなたにとって、もしかして、キリストを証するために残されている時間はそう長くないかもしれません。明日ではあなたのこの世の人生は終わってしまっているかもしれないからです。反対に、あなたにはこの世で生きて行く十分な時間が残されていても、もし、あなたがその祈りを忘れて、与えられている機会を用いなかったとしたら、あなたを通して福音を聴いて救われるはずの人が、そのチャンスに恵まれないまま息絶えて永遠の滅びに落ちてしまうかもしれないのです。その場合、神はあなたにその責任を求めるでしょう(エゼキエル33章)。
皆さんは、毎週の礼拝の中で順番にこの前に立って、証をすることになっていますが、あなたはそれを義務とは考えないで下さい。むしろ話をさせて頂ける恵みのときと感謝してください。いよいよ何も語る用意がない時には、今年度の主題聖句を読み上げるだけで、立派に証なのです。讃美歌の一説を朗読するだけで、きっとその日、礼拝に来られた人の心に深い慰めを提供できるかもしれないのです。


 まだイエス・キリストの福音がよく理解できない人、イエスを救い主と信じるに至っていない人々に申し上げたいです。あなたの人生を一番心配しているのは、他ならぬあなたの心です。霊です。そのあなたの内なる心に、あなたの内なる声が聞こえてきませんか。「わたしにもイエス・キリストの物語を聞かせて!」という声が。
今日の礼拝メッセージの主題をもう一度言葉に出してみましょう。「神よ、どうか、あなたの話をさせてください。」と。  

祈りましょう。
天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。
 使徒パウロは悪質な人たちに一方的に誤解されて、ローマの官憲によって鎖につながれる身となりました。しかし、彼はそのようなときにも、「一言話をさせてください」と願い出ました。それは助命嘆願のためでも、或いは敵対する人たちに言い返すためでもなく、そこにいる人々にイエス・キリストの福音を語り聞かせたいと考えてのことでした。このようにパウロはいつの時にも、先ずイエスさまのことを一番に考える人でした。次に人々の魂の救いでした。「話をさせてください」というこの言葉こそ、わたしたちにとって、これからの信仰生活のために、これはキーワードとなる言葉です。
あなたは今朝、わたしたちがいつ、どんな状況にあっても、心の中で、あなたに、「主よ、あの人の救いのために、一言あなたのことを話させてください。語る勇気と愛とチャンスを与えてください。」と祈るべきことを教えてくださいました。あなたの尊い御言のゆえに心から感謝します。
私たちの主イエス・キリストのお名前を通して、この祈りをおささげします。アーメン。


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