【主日礼拝メッセージ要約】                                   2007年826                                                   

ためらうな、立ち上がれ 

使徒言行録22章1-21節

高橋淑郎牧師

  サウルはキリスト教撲滅を目指してダマスコ郊外に差しかかりました。突然太陽よりも強い光を受けて、その場に倒れた時、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声が上から聞こえてきます。「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねますと、「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである」という答えが返ってきました。更に、「主よ、どうしたらよいでしょうか」と尋ねると、「立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる」と命ぜられました。神に背を向け、「何でも見えている。何でも知っている」と思い上がっていた「高慢の瞳」は閉ざされ、手を引かれながらダマスコに入っていきましたが、そこで彼を待っていたのはユダヤ教指導者ではなく、その地方の住民全てに尊敬されているアナニアというキリスト者です。アナニアから、「兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。」と言われたとき、彼はこれまで学んでいた聖書は、イエス・キリストのことを証していると悟ることができました。今や本当に見るべきものを見る眼が与えられたのです。続いて「今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、バプテスマを受けて罪を洗い清めなさい。」と言いました。サウルはこの瞬間イエス・キリストによって救われたことを確信し、喜びと感謝に溢れました。同時に否定しようのない人生の汚点、過去に犯した罪の数々に苦しみます。しかし、主イエスは言われます。「行け。わたしがあなたを・・・遣わすのだ」と(21節)。過去の全てはもう赦されたのです。罪を悔改め、信仰を言い表してバプテスマを受けたあの時に全ては洗い清められたのです。
神はあなたに呼びかけています。「今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方(イエス・キリスト)の名を唱え(信仰を告白して)、バプテスマを受けて罪を洗い清めなさい」と。あなたもためらわず、今すぐにそこから立ち上がって、教会に行ってイエスを信じ、バプテスマを受ける決心をしてください。

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【主日礼拝メッセージ                       

ためらうな、立ち上がれ 

使徒言行録22章1-21節

高橋淑郎牧師

 ローマ軍の兵営に連れて行かれそうになったパウロは、千人隊長の許可を得て、階段の上に立ち、群衆に向かって話し始めました。パウロは、どんな時にも主イエス・キリストが自分にどんなことをして下さったか、つまり信仰の証を語る機会を見失いません。このきわめて厳しい状況の中でもです。しかも、たった今敵意をむき出しにして暴行を加えたユダ人に対して、「兄弟であり、父である皆さん・・・。」と呼びかけました。その上で、自分と聞き手は同じ立場にあることを知ってもらおうと、ギリシャ語ではなく、ヘブル語で話し始めましたから、群衆はすっかり静まりました。
彼は、先ず自分の出身とイエス・キリストに出会うまでの半生を振り返ります。それはユダヤ教の世界にあってエリートコースをひた走っていた青年時代のことでした。彼は当代随一の学者であったガマリエルの下で先祖の律法について厳しい教育を受け、聖書が証言する神に熱心に仕えていました。「先祖の律法」というのは、旧約聖書(特にモーセ五書)を、詳しく解説したもので、その内容は膨大なものですが、律法学者と呼ばれる人たちはこれをほとんど理解し、覚えていたと言われています。もちろん彼もその一人です。彼がその「先祖の律法」によって理解している神に熱心であればあるほど、「この道」と呼ばれるキリスト教に対する敵愾心がみなぎってきました。彼は常に行動の人でしたから、キリスト教会を、そこに集うキリスト者の存在を許すことができず、迫害の急先鋒を切っていました。それはエルサレムに留まらず、ついに隣国シリアの首都ダマスコにまで及び、迫害を避けて逃げていったキリスト者をエルサレムに連行して処刑するために、大祭司のお墨付きをもらって鼻息も荒く出発しました。と、パウロはここまで話した上で、「その頃のわたしについては、大祭司も長老会全体も証言してくれるはずです」と申し添えました。

 さて、ここから先が話の本題です。こうして彼は迫害の息を弾ませてダマスコ郊外にさしかかりました。真昼ごろに、突然太陽よりも強い光を受け、その場に倒れてしまいました。すると、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声が聞こえてきます。「主よ、あなたはどなたですか。」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである」という答えが返ってきました。
パウロのこの体験談はこの他に使徒言行録だけでも2ヵ所(9:1−6,26:4−18)に見ることができます。主イエスはその時もう少し詳しく、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」と言われたそうです(26:14)。彼は彼の理解する方法で聖書の神に忠実なつもりでした。しかし、キリストの教会を迫害することは、天に唾することです。キリスト者を殺害したり、傷つけることは、とげの付いた棒を蹴るに等しく、蹴っている彼自身ひどい目に遭うという警告を受けました。神に逆らう人生は自分を傷つけるに等しい、という意味です。そこで彼は、「主よ、どうしたらよいでしょうか」と尋ねました。すると、イエスは、「立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる」と答えてくださいました。


 示された通り、彼はダマスコに行きました。しかし、彼を待っていたのはユダヤ教指導者ではなく、アナニアというその地方の住民全てに尊敬されている敬虔なキリスト者でした。神に背を向け、キリストに逆らって、「何でも見えている。何でも知っている」と思い上がっていた「高慢の瞳」は閉ざされて、手を引かれながらダマスコに入って行きましたが、アナニアから、「兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。」と言われたとき、彼はこれまで学んでいた聖書は、神の子イエス・キリストのことを証していたのだ、と悟ることができました。今や本当に見るべきものを見る眼が与えられたのです。かつてイエス・キリストは高慢なファリサイ派というユダヤ教の指導者たちに向かって、「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネ9:41)と言われたことがあります。
これは意味深いみ言葉です。わたしたちは、本当は何も分かっていないのに、地球上の全てが分かっていると信じ込み、人間の生きる道について何も見えてはいないのに、見えていると豪語して、罪に罪を重ねているのです。わたしたちはわたし達の生き方を点検して頂くために、イエス・キリストによって、何でも悟っているかのように錯覚し、傲慢になっている肉の目、罪の瞳を閉ざされる必要があります。そして、礼拝で語られるメッセージを通して、「元どおり見えるようになりなさい」という神の愛の呼びかけによって、霊の目が開かれなければなりません。霊の目が開かれ、霊の瞳が開かれたとき、わたしたちは初めてイエス・キリストを信じる者となれるのです。アナニアはサウルに呼びかけました。「今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、バプテスマを受けて罪を洗い清めなさい。」と。


 話は少し横道にそれますが、聖書には生涯の途中で、親から与えられた名前を神によって呼び変えられている人を何人か見ます。たとえば、アブラムは、「アブラハム」に。その妻サライは「サラ」に。孫のヤコブは「イスラエル」に。またイエスはその弟子シモンを、「ペトロ」と改名されました。こうした記事をヒントに、教会によってはクリスチャン ネームというものを考え出すようになりましたが、わたしたちの教会ではそうしたことを考えることも、実行することもしてはいません。何故なら、名前の呼び変えは、全て神が必要に応じてなさったことで、人間が人間に対して名前の呼び変えをすることは畏れ多いと考えているからです。


 今、階段の上で群衆に証をしている彼の名は「サウル」と呼ばれていましたが、イエスの弟子とされて後は、異邦人世界の言語である、「パウロ」と呼ばれるようになりました。いったい、イエスがこの人を「パウロ」と呼び変えられたのには、どんな意味があるのでしょう。使徒言行録9章を読んだときにお話したことがありますが、当時ユダヤ教会では、ユダヤ人議会から各地の「シナゴーグ」と呼ばれる会堂に派遣される指導者のことを「シャリアハ」と言いました。シャリアハとは、「全権を委託された者(新約聖書の『使徒』。ギリシャ語のアポストロス)」という意味です。サウルは大祭司から全権を委託されたシャリアハとしてダマスコに出かけて行きました。大祭司によってキリスト教撲滅という使命を帯びた全権大使の誕生です。しかし、イエスはユダヤ教のシャリアハであった「サウル」を異邦人のために福音を宣べ伝えるキリストのシャリアハ、「使徒パウロ」として用いようとしておられるのです。これが、イエスによって示された、「しなければならない」ことでした。ここに、キリストと教会の敵であった古い罪びとのシャリアハ、「サウル」は十字架のイエスと共に死んで、復活のキリストから任命された新しいシャリアハ、異邦人のための宣教者「使徒パウロ」の新生(誕生)です。
パウロは今や、イエス・キリストに救われたことを確信し、喜びと感謝に溢れていました。同時に否定しようのない人生の汚点、過去に犯した罪の数々が救われたはずの心に暗い影をさしています。忘れられないのです。しかし、主イエスは言われます。「行け。わたしがあなたを・・・遣わすのだ」と(21節)。過去の全てはもう赦されたのです。罪を悔改め、信仰を言い表してバプテスマを受けたあのときに全ては洗い清められたのです。
今、皆さんにお勧めします。あなたの過去にもいろいろな罪の思い出が何かの時にふと甦ってくることでしょう。それは決して人には言えない過ちかもしれません。今もその傷があなたの良心をちくちくと刺し、痛む毎日かもしれません。どうすれば心に平安が得られるのでしょうか。聖歌(416番)の中に次のような詩があるのをご存知でしょうか。


1.「犯した罪 思い出しては 悲しむけれど 涙の中に 救いはない
  イエス・キリストにおすがりすれば 救いはすぐに 与えられる」
2.「力限り 善事を励み 修養しても 善い行いに救いはない
  イエス・キリストにおすがりすれば 救いはすぐに 与えられる」
3.死ぬ迄には 何とかなると ただ待つ人に 神の救いは 訪れない
  イエス・キリストにおすがりすれば 救いはすぐに 与えられる」
4.人に代わって 涙を流し 悩みを受けた キリストだけが 救い主だ
  イエス・キリストにおすがりすれば 救いはすぐに 与えられる」

 聖書はあなたに、「イエス・キリストは既にそのあなたの罪を贖うために十字架の上に、あなたに代わって死んでくださった。もうあなたの罪は赦されている。あなたが、今このイエスを救い主と信じて受け入れるなら、イエス・キリストが復活されたように、あなたも古い罪の生活から、神と隣人のために生きる、新しい永遠の命に生まれ変わることができる」と呼びかけています。
ですから、皆さん、あなたは今、何をためらうことがあるでしょうか。立ち上がりなさい。イエスを信じ、バプテスマを受ける決心をしてください。  あなたのために祝福を祈ります。

天の父なる神さま。あなたの御名を崇め、讃美します。
 今日はパウロ自身の口で、彼が「教会の迫害者サウル」から、「福音の宣教者パウロ」へとその呼び名さえも変えて下さったという恵みに満ちた証を聴くことができました。そうです。あなたは語って下さいます。「イエス・キリストを信じるのに早すぎることはない」と。わたしたちの人生がいつ誤った道に迷い込むか分からないからです。けれどもまた、あなたは語って下さいます。「イエス・キリストを信じるのに遅すぎることもない」ということを。あの罪、この失敗を思うと心が重いです。しかし、あなたの独り子イエスさまはその罪人のわたしたちの為に涙を流しながら、重い十字架を担い、そして死んでくださいました。
主イエスは復活して今も生きておられます。復活の主キリストは、今日もわたしたちに、「何をためらっているのか。今すぐに立ち上がってわたしのもとに来なさい」と招いてくださいます。感謝します。今はもうためらいません。赦しと憐れみに満ちたあなたの御許にすがってまいります。
私たちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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