【主日礼拝メッセージ要約】 2007年9月16日
「勇気を出せ」
ライホルド・ニーバーという神学者の祈りにこういう言葉があります。
「神よ 変えるべきであるものについて、それを変える勇気を我らに与えたまえ。 変えるこの出来ぬものについては、それを受け容れる冷静さを与え給え。 そして変えるべきものと、変えることのできぬものを、識別する知恵を与え給え。」
わたしたちの人生においても、変えるべきものと変えられないものがあります。いくつかの変えるべきものの中で、本当に変わらなければならないのは私たち自身です。しかし、現実にはこれほど難しいことはありません。だから、主は言われます。「勇気を出せ」と。人を変えようとする前に、先ず自分自身が変えられなければ良い人間関係は築けません。しかしまた、自分で自分を変えることはほとんど不可能です。それを可能にしてくれるのはイエス・キリストの十字架です。キリストの十字架は神の義と愛の交わったものです。神の義は心頑ななわたし、不道徳なわたし、自己中心で、自分に優しく、人に厳しいわたし、一口に言うところの罪びとのわたしを罰しないではいられません。しかし、神は愛に満ちあふれた方ですから、罪に汚れた者であっても赦したいのです。この義と愛の相反する要求を神は十字架の上に満足させられました。罪を知らない方を罪として、この方の上に十字架を負わせ、わたしに代わって神の怒りを引き受けてくださいました。この方によって、わたしたちは赦され、救われ、受け入れられたのです。私たちはこのままでは死後神のみ前に出ることは出来ません。変わらなければならないのです。いや、変えられるのです。「勇気を出して」、今すぐにイエス・キリストをあなたの救い主として信じ、従ってください。
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「勇気を出せ」
高橋淑郎牧師
千人隊長は、ローマの市民権を持つユダヤ人パウロがどうしてユダヤ人に訴えられることになったのかを知ろうとして、祭司長たちと最高法院全体を召集しました。聖書事典によりますと、最高法院と呼ばれる最高決議機関は、ギリシャ語のスネドゥリオンをヘブル語化してサンヒドリンと呼ばれる議会で、主(おも)に律法違反の容疑で逮捕された人を裁く最高裁判所です。議長兼裁判長は世襲の大祭司で、以下70人の祭司たち、サドカイ派、ファリサイ派の人々によって裁判は進められます。議場は議長席を中心に、お互いの顔が見えやすいように半円形になっていました。恐らく被告人はその真ん中に立たされたことでしょう。新約聖書を読んでいると、主イエスのときもそうですが、このパウロの裁判に限って言えば、被告人パウロにとって、はなはだ一方的で不公平な状況に見えますが、通常は多少なりとも冤罪を防ぐ手立てが講じられていたようで、無罪の場合は過半数で決せられるのですが、有罪の場合は三分の二以上の賛成が必要であったということです。
パウロは、最高法院に引き出されたとき、「わたしはいつも良心に従って神の前で生きています。」と弁明しました。「良心に従って」とは、真面目に生きている人が良く口にする言葉です。しかし、「神の前で生きています。」と言える人は多くありません。裁判官席の大祭司は下役にパウロの口を打つようにと命じました。その時彼は議会の面々を見回していたので、その声が大祭司のものか分からなかったからでしょうか、それとも、こういう場に引き出されたのは初めてで、勝手が分からなかったのでしょうか、大祭司の言葉とは知らず、「白く塗った壁よ、・・・」ときつい語調で反論しました。しかし、そばにいた人から、それが大祭司だと指摘された時、直ちに、「その人が大祭司とは知りませんでした。確かに、『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています。」と出エジプト記22:28の御言を引用して、率直に謝罪ました。これこそ、良心に従い、神の前で生きている人の言動です。そして、すぐに、「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」と弁明を続けました。パウロは、いつの場合にもイエス・キリストの福音を宣べ伝えないではおれない人です。復活信仰は福音の根幹ですし、パウロにとってよりかかるべき伝道の柱なのです。案の定、この言葉は最高法院を分裂させることになりました。死人の甦りを信じるファリサイ派の人々は、「彼は無罪だ」と言い、サドカイ派の人々は、死人の復活などあり得ないとして、「有罪だ」と譲りません。果ては両者がパウロを引っ張りこしたのでしょうか。兵士が間に入って、力ずくで彼を助け出さなければなりませんでした。千人隊長の命を受けて両者の間に割って入り、パウロを助け出したのは、パウロがローマの市民権を持っていたからです。自分たちの目の前でユダヤ人のために、ローマ人の身に万一のことがあったら、彼らは本国政府から責任を問われるからです。
それにしても千人隊長をはじめ、ローマ兵たち異邦人の目に、ユダヤ教指導者たちによる、こうした激論と騒動は、どのように映ったでしょうか。神を信じると言いながら、激しく罵りあったり、物理的な行動に走る姿を見て、異邦人たちは、それでもユダヤ人の信じる神は素晴しいと思うでしょうか。たぶん失望したことでしょう。
同じように、わたしたちキリスト者もそうです。どんなに聖書的知識を振りまいても、その教会生活がでたらめであったり、言葉に愛と謙虚さがなければ、周囲の未信者の誰が、「ああ、イエス・キリストって素晴しい。わたしも信じたい。」と思うでしょうか。こういうことはつまずき以外の何ものでもありません。
これは誰よりもパウロにとって心痛むことであったに違いありません。長年の祈りであったローマ伝道への思いをいよいよ熱く、強くさせられたことでしょう。だから、主もこの祈りに応えて、明確な約束を与えて下さいました。「勇気を出せ、エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」と。ローマへの道がこの時はっきりと示されました。パウロにとって本当に嬉しいお言葉です。しかし、またこれはパウロにとって一抹の寂しさを感じさせることでもあるのです。
先ほどはユダヤ人の手で彼のからだが危うく二つに引き裂かれるところでしたが、その夜、今度は神がパウロの心を二つに引き裂くようなことを言われました。彼は先ほど、エルサレムの宮に近い最高法院という部屋で弁明をしました。許されるなら、もっと時間をかけて大祭司以下祭司たち、サドカイ派の人々、ファリサイ派の人々に、イエス・キリストの十字架と復活の福音を語り、彼らが悔い改めに導かれて救われるようにと導きたかったのです。
彼の思いをご存じである神が、パウロの心に、ローマ伝道の門が開かれるということと、ユダヤ人伝道の門が閉ざされるという苦渋の決断を迫りました。「勇気を出せ。」、このみ言葉は確かに神がお示しになった新しい使命です。パウロの心の内を推し量るに、人間的にはあの最高法院に集まった人々、そしてエルサレムに住む人々の魂が気にならないと言えば嘘になります。しかし、そのことも委ねる勇気が求められる御言なのです。 ライホルド・ニーバーというドイツ系アメリカ人神学者の祈りにこういう言葉があります。
「神よ 変えるべきであるものについて、それを変える勇気を我らに与えたまえ。 変えるこの出来ぬものについては、それを受け容れる冷静さを与え給え。 そして変えるべきものと、変えることのできぬものを、識別する知恵を与え給え。」
パウロは今、ニーバーの祈りに通じるもの、変えるべきものと変えられないものを識別する知恵を与えてくださる主に委ねました。
わたしたちの人生においても、変えるべきものと変えられないものがあります。いくつかの変えるべきものの中で、本当に変わらなければならないのは私たち自身です。しかし、現実にはこれほど難しいことはありません。だから、主は言われます。「勇気を出せ」と。人を変えようとする前に、先ず自分自身が変えられなければ良い人間関係は築けません。しかしまた、自分で自分を変えることはほとんど不可能です。それを可能にしてくれるのはイエス・キリストの十字架です。キリストの十字架は神の義と愛の交わったものです。神の義は心頑ななわたし、不道徳なわたし、自分に優しく、人に厳しいわたし、一口に言うところの罪びとのわたしを罰しないではいられません。しかし、神は愛に満ちあふれた方ですから、罪に汚れた者であっても赦したいのです。この義と愛の相反する要求を神は十字架の上に満足させられました。罪を知らない方を罪として、この方の上に十字架を負わせ、わたしに代わって神の怒りを引き受けてくださいました。この方によって、わたしたちは赦され、救われ、受け入れられたのです。私たちはこのままでは死後神のみ前に出ることは出来ません。変わらなければならないのです。いや、変えられるのです。「勇気を出して」、今すぐにイエス・キリストをあなたの救い主として信じ、従ってください。
変えられないものがあります。自分の力で人を変えることは不可能です。変えることの出来ないものを目の前にして短気を起こさずに、受け容れる冷静さが求められます。ニーバーさんは、受け容れるのであって、あきらめてはならないと言います。受け容れるとは実際にどうすればよいのでしょうか。全能の主である神に委ねなさいということではないでしょうか。人をあるがままに受け容れることは忍耐を要します。とても苦しいことです。しかし、「勇気を出せ」と主は言われます。勇気をもって主に委ねましょう。
祈りましょう。 天の父なる神さま。あなたの御名を崇め、讃美します。
パウロは、最高法院に引き出されたとき、「わたしはいつも良心に従って神の前で生きています。」と弁明しました。彼は「良心に従って」、誰をはばかることなく、正しいことを貫きました。同時に彼は、「神の前で生きています。」と言える人でした。神の前で生きるということは、正しい人も、正しくない人も、善人も、悪人も、等しく神の愛と寛容の中で生かされているということを信じることを意味します。そのパウロに、なおもあなたはお命じになりました。「勇気を出せ」と。パウロの前に伝道領域が無限にあることを教えるお言葉でした。同時に、あなたのできることは一つ、後のことはわたしに委ねなさい。と仰ったのです。語る勇気、黙っていることの勇気、なすべきをなす勇気、なすべきでないことを控える勇気、こうしてみると、わたしたちの人生はずいぶん徒労の繰り返し、空回りの生き方をしていたことに気付かせられます。主よ、今、わたしたちも何が私たちにとって一番大事なことであるか、優先順位を教えてください。識別する知恵をお与えください。
私たちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。