【主日礼拝メッセージ要約】                                   2007年923

悪事千里を行く」 

使徒言行録23章12-23節

高橋淑郎牧師


 「悪事は千里を行く」と言います。悪い計画は必ず、思いがけない方法で明らかにされるものです。主イエスは「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。」(マタイ10:26)と言っておられます。全知・全能・遍在の神は、私たち人間がどこに行こうが、何を考えようが、何を言い、何をしようが、全てをご存知です。勿論、神に頼る者の弱さもご存知ですから、心無い人の噂の種にならないように、配慮して下さる方です。しかし神の御心を汚し、神に仕える者を危険にさらす陰謀は必ず白日の下に曝されます。
 わたしたちは、神がわたしたちの全てを知っておられるのだということを、毎日の生活の中でどこまで弁えているでしょうか。教会に導かれた時は神を思い出します。聖書を読んでいる時は神への敬虔な思いに導かれて、「アーメン」と応答できます。しかし、わたしたちの弱さ、また罪深さは、日曜日から次の日曜日までの間にこの真理を忘れてしまうのです。聖書に証しされている神の聖さを忘れて、神を自分と同じレベルに引き下げて、「人が見ていないからいいや」、とか、「みんなもしていることだから大丈夫」と、自分の基準でことをなしてしまい、とんでもない結果を招いてしまうのです。
もう一度11節の御言に戻ってこのことを考えて見ましょう。使徒パウロがこの御言を頂いたのは、きっとその夜床につく前に、神に祈りをささげたことに対する神の応答ではなかったでしょうか。
 キリスト者の値打ちは、教会の中でどんな役職を担っているとか、どんな奉仕ができるかではなく、誘惑の多いこの世の中で、礼拝から受けた恵みの御言を、どのように実践しているか、周りの人々、殊に未信者の心に清い印象を与えているかということで決まるのだということを、ここから学ぶことができます。わたしたちは毎朝目覚めた時に、先ず床の上で「主よ、今日の一日、あなたのみ前に秘密を作らなければならない生活ではありませんように。」と祈りましょう。夜、床につく前に、一日の罪の悔い改めと感謝を言い表す祈りを忘れずに捧げましょう。

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【主日礼拝メッセージ】                                  2007年923                                             

悪事千里を行く」 

使徒言行録23章12-23節

高橋淑郎牧師


 今日読みます聖書箇所には、「神」も、「キリスト」も直接には言及されていません。だからといって、これをただの歴史記録と読み過ごしてはなりません。旧約聖書のエステル記もそうですが、この箇所の背後にも歴史の主である全能の神の導きは証しされています。御霊なるキリストは生きて働いておられるのです。今日与えられた聖書箇所に目を凝らし、ここからも語って下さっている主イエス・キリストのメッセージに耳を傾けてまいりましょう。

 最初に、これまでの出来事を振り返ってみることにします。使徒パウロは最高法院の面前で、「わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」と弁明しました。これは復活を信じないサドカイ派に揺さぶりをかけたと言って良いでしょう。そのため議場は大混乱に陥り、判決どころではなくなりました。幸い千人隊長の機転で安全な場所に移されたパウロは、祈りながら眠りについたことと想像できます。キリスト者であれば、誰でも夜、床に入ってそのまま布団にもぐりこむようなことはしないで、一日の感謝を神に献げることを忘れないからです。すると、主は、その祈りに答えるように、エルサレムにおける宣教の働きを労い、更にこのまま死ぬことはないことと、ローマでもう一働きすることになっているという明確な使命を彼に与えて下さいました。
 一方獄舎の外では、サドカイ派の人々だと思われますが、40人以上のユダヤ人たちがパウロ暗殺を画策し、目的達成まで飲食を絶つとまで固い誓約を交わします。よほど自分たちの作戦に自信があったのでしょう。ところがいつどのようなタイミングか分かりませんが、パウロの甥がこれを聞きつけると、身の危険を顧みず、直ちに叔父さんに知らせました。パウロは百人隊長を介してこのことを千人隊長に報告させました。ユダヤ人たちのパウロ暗殺計画を知った千人隊長は、パウロをこのままエルサレムに留めておくことは危険と判断して、直ちにカイザリアに移送することにしました。時刻は午後9時のことでした。千人隊長はカイザリアに在任中の総督アントニオ・フェリクス(紀元52−56年?)宛に、これまでの経緯と、囚人パウロの身柄を託す旨手紙に認め、歩兵200名、騎兵70名、補助兵(口語訳聖書:槍兵)200名をもってアンティパトリス(エルサレムから北西40km)まで護送させた後、歩兵だけエルサレムの兵営に引き返させました。翌朝パウロは、更に北へ50Kmの道のりを、カイザリアに向けて騎兵隊に護送されて行きました。フェリクスは千人隊長の手紙を読み、パウロの出身地がキリキアであることを確認した上で、自分で裁く決意を表明しました。

 以上が23章全体の要約です。では、この箇所から今朝、わたしたちに与えられたメッセージは何でしょうか。
パウロをローマへ導くために、さまざまな出来事を通して、またいろいろな人を用いて働かれる主なる神のご臨在を感じます。「エルサレムでわたしのことを力強く証したように、ローマでも証しをしなければならない。」(11節)と言われた主のご命令と約束が、全ての回転軸となり、パウロの全身全霊を支えているのです。全ては11節から始まり、そこから全てが導かれているのです。
 40人以上のパウロに対するユダヤ人の陰謀は、おおよそ霊的な奉仕に生きる人々のすることではありません。しかし、彼らは悪魔に魂を奪われてしまったように、主なるキリストの僕として選ばれた人を抹殺しようと、綿密な計画を立て、この陰謀が外に漏れることがないように、また誰一人抜け駆けしないようにと飲食を絶つとまで、彼らは固く約定を交わしました。しかし、「悪事は千里を走る」と申します。悪いはかりごとは必ず、思いがけない方法で明らかにされるものです。先ほど申し上げましたように、パウロの甥はいつどのようなタイミングで、彼らユダヤ人の陰謀を耳にしたか分かりませんが、ひとつだけ確かなことは、神に対して人間の秘密は何の役にも立ちません。詩139:1−10に次のような御言があります。
「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。 座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。 歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる。 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに 主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み 御手をわたしの上に置いていてくださる。 その驚くべき知識はわたしを越え 余りに高くて到達できない。 どこに行けば あなたの霊から離れることができよう。 どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。 曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも あなたはそこにもいまし 御手をもってわたしを導き 右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」
 主イエスも次のように言っておられます。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。」(マタイ10:26)と。
 全知・全能・遍在の神は、わたしたち人間がどこに行こうが、何を考えようが、また何を言い、何をしようが、全てをご存知です。勿論、神に頼る者の弱さもご存知ですから、心無い人の噂の種にならないように、配慮してくださる方です。しかし、神の御心を汚し、神に仕える者を危険に曝す悪いはかりごとは必ず白日の下に曝されます。
このように、人間の奥深い思いを見抜く神は、ユダヤ人の陰謀をパウロの甥が知るようにと導かれたのです。

わたしたちは、神がわたしたちの全てを知っておられる方であるということを、毎日の生活の中でどこまで弁えているでしょうか。教会に導かれた時は神 を思い出します。聖書を読んでいる時は神への敬虔な思いに導かれて、「アーメン」と応答できます。わたしたちの弱さは、また罪深さは、日曜日から次の日曜日までの間にこの真理を忘れてしまうのです。聖書に証しされている神の聖さを忘れて、神を自分と同レベルに感じてしまい、「人が見ていないからいいや」、とか、「みんなもしていることだから大丈夫」と、自分の基準でことをなしてしまい、とんでもない結果を招いてしまうのです。
もう一度11節の御言に戻ってこのことを考えて見ましょう。くどいようですが、使徒パウロがこの御言を頂いたのは、きっとその夜床につく前に、神に祈りをささげたことに対する神の応答ではなかったでしょうか。
キリスト者の値打ちは、教会の中でどんな役職を担っているとか、どんな奉仕ができるかではなく、誘惑の多いこの世の中で、礼拝から受けた恵みの御言を、どのように実践しているか、周りの人々、殊に未信者の心に爽やかな印象を与えているかということで決まるのだということを、ここから学ぶことができます。
 そのために、わたしたちは毎朝目覚めた時に、先ず床の上で「主よ、今日の一日、あなたのみ前に秘密を作らなければならない生活ではありませんように。」と祈りましょう。夜、床につく前に、一日の罪の悔い改めと感謝を言い表す祈りを忘れずに捧げましょう。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇め、讃美します。
 詩139:1−10を通して、わたしたちはあなたのみ前に、秘密にできることは何もないことを教えられました。飲食を絶ってまでパウロを暗殺しようと目論んだユダヤ人のひそかな計画は、不思議な導きの下に、潰(つい)えました。
 「どこに行けば あなたの霊から離れることができよう。 どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。 曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも あなたはそこにもいまし 御手をもってわたしを導き 右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」
まことにその通りです。今の世にも、自制心を失い、だれも見ていないからと、不道徳な習慣にふけり、公金を騙し取り、人の命さえあやめる人が後を絶ちません。しかし、御言は真理です。一時(ひととき)目的を果たしたかに見えても、それは必ず白日のもとに曝され、厳しい報いを受けなければなりません。
 主よ、今こそ人々にあなたがわたし達の一挙手一投足をご覧になっていることと、あなたから離れて自由になれる所などないことを教えてください。いいえ、あなたが私たちご覧になっているのは、わたしたちの行く所を全てご存知なのは、わたしたちを拘束するためでなく、むしろわたし達を守ろう、救おう、助けようとして御手を伸べてくださっている証しであることに気づかせてください。「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわることのない、幸いな人生」を送る者とならせてください。
私たちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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