【主日礼拝メッセージ要約】                                   2007年107

来るべき裁き」 

使徒言行録24章1-27節

高橋淑郎牧師

 パウロにとっては裁判の席でも、総督フェリクスとの非公式な話し合いの場でも語ることは一つでした。それは、「来るべき裁きの日に備えよ」ということでした。「死人の復活」と聞けば、普通、キリスト・イエスに対して信仰の生涯を貫き通した人が、神の国に引き上げられると考えがちです。勿論その考えは間違っていません。しかし、パウロの説く終末信仰はそれだけではありません。キリスト・イエスに対する信仰を軽んじたり、否定するような正しくない者もまた永遠の裁きを受けるために、神のみ前に復活させられるのです。生前良いものを受けながら、神に栄光を帰すること、すなわち罪の悔い改めと信仰の告白、更に讃美と感謝のうちに礼拝をささげることを人生の隅っこに置き忘れた人は、死後裁かれて永遠の滅びに落とされるのです。神は公義の方である所以です。こういう話を聞かされた人は、この聖書に登場する総督フェリクスに限らず、大抵は恐ろしくなってその場から離れたがるものです。
 わたしたちの通常の生活でも、家の隅っこにカビや汚れたものがあることに気がついても、面倒だといって見なかったことにすることもできますが、いずれはそのツケが住んでいる人の身に降りかかるでしょう。私たちの心も神のみ前に正しくないものが増えているのを知りながら、いつまでもそのままにしていては、今に大変なことになります。今、わたしたちの耳に響いてくる声があります。「来るべき裁きの日に備えよ」という声です。
 もし、あなたが来るべき裁きの日のために何を備えるべきかとお尋ねであれば、それはただ一つです。主イエスを信じなさい。聖書はあなたに呼びかけています。「御子イエス・キリストの血によってあらゆる罪から清められます。・・・自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(Tヨハネ1:7−9)とあるとおりです。

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【主日礼拝メッセージ】                                         2007年107

来るべき裁き」 

使徒言行録24章1-27節

高橋淑郎牧師
 

 ユダヤ人によるパウロ暗殺計画を知った千人隊長は、パウロをカイサリアにいる総督フェリクスのもとへ移送しました。「5日の後」というのは、パウロがカイサリアに移されたことを知った大祭司たちが、フェリクスのもとに訴え出るための段取りに要した日数かもしれません。大祭司アナニアは数名の長老を伴って総督の前に現われました。アナニアが祭司ではなく、長老を連れていきました。政治家総督と渡り合うのに、祭司よりも長老たちの方が好都合と踏んだからです。長老とは、町の治安を守る責任を担うのが主な任務です。更にテルティロというラテン系の名前を持ったユダヤ人弁護士を原告代理人として連れていきました。テルティロは、ユダヤ教の律法に明るく、またローマ法にも精通している人物として大祭司のお眼鏡に適ったからでしょう。
テルティロは裁判の冒頭から、パウロに対する訴訟の理由を述べ始めました。被告人パウロについて、「この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を起こしている者です。」というように、パウロがいかに危険な人物であるか、その活動自体が治安を乱すものであったと訴えました。 第二に、パウロのことを「ナザレ人の分派」の主謀者であると述べ、被告人の危険な活動の根拠はそもそもここに由来しているというのです。そして第三に、パウロという男は神殿さえも汚そうとしたと言います。
さすがに弁護士とは法律の知識を駆使して巧みな弁舌でご飯を食べている職業の人だけあります。この訴訟を聞いただけですと、被告人パウロがどれほど残酷で反社会的な人物であるかと信じた人が多いことでしょう。
 しかしフェリクスはローマ法に基いて(25:16)被告人パウロにも弁明の機会を与えました。パウロはテルティロの訴えに対して一つ一つ反論します。
第一点は、パウロを「疫病のように、世界中のユダヤ人の間で騒動を起こしている者」という点について、疫病とは、伝染性の病原菌という意味ですから、パウロが行くところ、ユダヤ教からキリスト教へと回心するユダヤ人が多く起こされたということを指して言っているものと思われます。しかし、あのときに騒動を起こしたのはむしろユダヤ人たちでした。そしてパウロは言います。「今度自分がエルサレムに戻ってきたのは、礼拝のためであって、しかもわずか12日しか経っていないし、その間に誰かと論争してはいなかったし、騒動らしい騒動も起こってはいなかったと言いました。
第二に、テルティロは、パウロを、「ナザレ人の分派」の主謀者で、明らかに危険人物であると言いました。「ナザレ人」とは他ならない主イエス・キリストのことです。私たちの主イエスはユダヤ人たちの誤った律法解釈、聖書の読み間違い、そこから生じるさまざまな矛盾や罪の問題を正すために、時に厳しい言葉で悔い改めを迫りました。しかし、ユダヤ教の指導者たちは指摘された罪を悔い改めるどころか、逆恨みして主イエスを、正統派ユダヤ教から逸脱して分派を作った律法違反者、神を冒涜した者として、十字架に釘打ち、死に至らしめました。しかし、主は三日目に復活されましたが、彼らはそれさえも信じないで、使徒パウロを「ナザレ人の分派」の主謀者と決め付けてしまいました。
パウロはこれに対して、自分がエルサレムに帰ってきたのは騒動を起こすためではなく、礼拝をささげるためであり、同胞に施しをし、神への献げ物をするために他ならなかった。しかも、宮を汚すどころか、宮の中では清めのための儀式を行っていた。現にわたしの周りで騒動など起こらなかったし、自分は勿論そのようなことに関与する者ではないと反論しました。更にこれがもっとも大切なことですが、彼らが「分派」と呼んでいるこの道に従って、「先祖の神を礼拝し、聖書をその初から終りまで信じている。更に、正しい者も、正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いている」と明確に証ししました。

 パウロのこの明確な答弁に対してテルティロをはじめ、大祭司も長老たちも誰一人返す言葉が見つからなかったようで、沈黙するしかありません。本来であれば、総督はこの場でパウロの無罪を認める判決を下すべきですが、ユダヤ教の教義に対するかなりの知識があったので、千人隊長リシアが来るのを待って判決を下すと裁判を延期してしまいました。
その一方で総督は、獄中でのパウロに対する扱いを緩やかにするようにと百人隊長に命じています。総督自身誰よりも、パウロが訴えられるようなことを何一つしていないことを認めていたからでしょう。それを裏付けるもう一つのエピソードとしてフェリクスは時折、パウロを呼び出してはたびたび話し合ったということです(24−26節)。それには二つの理由がありました。一つはキリスト・イエスについての話を聞くことであり、もう一つは賄賂を当てにしていたからです。もし、パウロが総督に対してかなりの金子を袖の下として握らせたら、何とでも理由をつけて釈放したことでしょう。しかし、パウロは総督が満足するほどのお金を持ち合わせていなかったでしょうし、仮に持っていたとしても、そんなことのために遣うよりは、神への献金として、また危機に瀕している同胞への施しに用いたことでしょう。そんなパウロの真っ直ぐな心を総督はうっとうしく思いながらも、半面密に敬愛の念を抱くようになっていたので、夫婦揃って聖書の話を聴きたさに呼び出したのではないでしょうか。
パウロにとっては裁判の席でも、フェリクスとの非公式な話し合いの場でも語ることは一つでした。それは、「来るべき裁きの日に備えよ」ということでした。「死人の復活」と聞けば、普通、キリスト・イエスに対して信仰の生涯を貫き通した人が、神の国に引き上げられると考えがちです。勿論その考えは間違っていません。しかし、パウロの説く終末信仰はそれだけではありません。キリスト・イエスに対する信仰を軽んじたり、否定するような正しくない者もまた永遠の裁きを受けるために、神のみ前に復活させられるのです。生前良いものを受けながら、神に栄光を帰すること、すなわち罪の悔い改めと信仰の告白、更に讃美と感謝のうちに礼拝をささげることを人生の隅っこに置き忘れた人は裁かれて永遠の滅びに落とされるのです。神は公義の方であるゆえんです。こんな話を聞かされた人は、この総督フェリクスに限らず、大抵は恐ろしくなってその場から離れたがるものです。
 愛する皆さん、わたしたちの通常の生活でも、家の隅っこにカビや汚れたものに気がついていながら、面倒だといって見なかったことにすることもできますが、いずれはそのツケが住んでいる人の身に降りかかるでしょう。私たちの心も神のみ前に正しくないものが増えているのを知りながら、いつまでもそのままにしていては、今に大変なことになります。今、わたしたちの耳に響いてくる声があります。「来るべき裁きの日に備えよ」という声です。
 もし、あなたが来るべき裁きの日のために何を備えるべきかとお尋ねであれば、それはただ一つです。主イエスを信じなさい。聖書はあなたに呼びかけています。「御子イエス・キリストの血によってあらゆる罪から清められます。・・・自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(Tヨハネ1:7−9)とあるとおりです。
実は聖書によると、神はもうすでにわたしたち罪びとを裁いておられました。主イエス・キリストの十字架は、神の裁きのしるしです。神はあのところで既に主イエスにおいてわたしたちの罪を裁いてしまわれたのです。十字架の上で流してくださった主イエスの尊い血潮によってわたしたちの罪は清められたのです。今、わたしたちがなすべきことは、自分の罪を認めて、主イエスを救い主と信じて、この方にわたしたちの残りの人生をお任せすればよいのです。この方を主として従う者となれば良いのです。裁きの日に備えてなすべき準備は、今イエス・キリストを信じる決心と告白、それだで良いのです。  祈りましょう。

天の父なる神さま。あなたの御名を崇め、讃美します。
 使徒パウロの目はいつもあなたにしっかりと向けられていました。だから、どういう状況に置かれても、どこに引き出されても、また誰の前でもしっかりと自分の信じていることを言葉にすることが出来ました。聖霊に満たされた神の僕とはこのような人だと、改めて教えられました。
 わたしたちが今朝、この礼拝に導かれたことは真に幸いでした。状況に左右されやすい、意気地なしのわたしたちですが、神さまを愛する心に立ち返りさえすれば、わたしたちも心から人を愛することができるということ、わたしのような者でも神さまに愛され、救われているのだから、たといわたしたちを目の敵にしている人であっても、あなたが先ずわたしを愛してくださったように、わたしたちもその人を愛することができるのだという確信が与えられました。心からあなたを信じてあなたの愛で人々にあなたの御言を伝えるなら、あなたはいつの日か、その人を救って下さることを信じます。
今信じないと、わたしたちは来るべき日、あなたの裁きに耐えられないのだということを心の中心に刻みつけさせてください。。
私たちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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