【主日礼拝メッセージの要約】 2007年11月25日
「 元気を出しなさい」
暴風のために操縦不能となった船は立ち往生するばかりです。これから先、船も自分たちの運命もどうなるのか全く見通しが立ちません。何とか船の沈没を防ぐためにと、翌日には積荷を、翌々日には船具までも海中に捨ててしまいました。太陽も星も見えない日が続くうちに、船はどこを目指しているのか、一体今は昼なのか、夜なのかの区別さえつきません。もはや誰も彼も語る言葉を失い、その心には「絶望」という二文字が、次第に現実のものとなりかけています。
その時です。突然パウロは暴風に揺れる船の中で立ち上がり、一同に語りかけました。船は失うが、わたしたちは必ず全員助かることになっている。それはただ口から出まかせの言葉ではなく、神がみ使を通して与えてくださった確かな約束である。その約束の根拠は、わたしは必ず皇帝の前に立つと示されている。また、乗員・乗客のすべては自分に委ねられたと言うのです。
今、あなたの人生は順風満帆ですか。そうであれば結構なことです。しかし、もし今、この世の立場や組織やしがらみという歯車の一つに組み込まれながら、不正と悪という暴風の中で翻弄され、行き場を見失い、絶望しかかっている人がいらっしゃるようでしたら、聖書はあなたに約束します。「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうち誰一人として命を失う者はない。」と。しかし、この御言葉は、あなたに、「よーし、頑張ろう」と言わせる為のものではありません。また何かでもって補おうと、身構える必要もないのです。否むしろ、それは、あなたをその危険から救おうとして下さる神の働きを邪魔することになります。あなたの便りとする船は沈んでしまうかもしれません。しかし、それでよいのです。神ご自身があなたの人生を持ち運ぶ船となって、あなたを祝された港へと導いて下さるからです。自分の頑張りや努力ではあなたの人生は決して幸福な港に行き着く保証とはなりません。主である神、イエス・キリストにあなたのこれからの一切を委ねて示されるままに、一歩を踏み出すことです。
戻る
|
「 元気を出しなさい」
その昔、当時世界が注目する中、豪華客船タイタニック号がインド洋を航行中、流氷と衝突して沈没し、沢山の犠牲者を出したことは余りにも有名です。
わが国でも津軽海峡を函館に向けて航行中の青函連絡船、「洞爺丸」が台風15号の為に船は転覆し、乗員・乗客合わせて1,314名中、実に1,155名もの尊い命が奪われました。1954年9月26日のことです。
その翌年、波静かな瀬戸内海を、香川県高松港から岡山県宇野港に向けて、乗員・乗客合わせて781名を乗せて航行中の「紫雲丸」が、濃霧のために視界を遮られ、反対方向から来た、「第三宇高丸」と衝突、168名の死者を出しました。その中には修学旅行に行くはずの小中学校の児童108名が含まれるという痛ましい事故でした。1955年11月30日のことでした。
以上のように、科学技術が著しく発達した20世紀でも海難事故の件数は枚挙に暇がありませんでした。ましてや紀元1世紀に地中海を往来していた船体は更に小さく、風に身を任せる帆船の時代ですから、海難事故は更に多かったことでしょう。
船旅に弱いわたしなど、今日の聖書箇所は、その時の情景が眼に浮かび、読んでいるだけで船酔いしそうになります。
パウロたちを乗せた船は、最初は穏やかな南風が吹いてきたので、船出に相応しいと出航しましたが、間もなく、突然陸地から吹いてきた激しい風にあおられて、帆をたたむ余裕もないまま、船はどんどん陸地から離されていきます。「エウラキロン」とは、単純に言うと、エウラとキロンを合成したギリシャ語で、その意味は、北東の風です。クレタ島中部には1,300m級の高い山があり、そこから猛烈な勢いで吹き降ろしてくる風ですから、文字通り暴風になりました。船の扱いに慣れているはずの水夫達も、さすがになす術もなく、流されるに任せるしかありません。そうは言っても彼らは何もしないで、ただ手をこまねいていたわけではありません。この船には常日頃から万一に備えて、脱出用のボートを係留させてあります。しかし、この風で、ボートは木の葉のように波間に浮かんでは消え、或いは船体にぶつかったりしていたのでしょう。こんなことが続くと、ボートは勿論、船体を傷つけ、もっと大変なことになりかねません。それで、島影にたどり着いて、少し風が弱まった隙に、ボートを船に引き寄せて結わえなおしました。そうしながら、浅瀬に乗り上げて座礁しないようにと錨を降ろして流れるままにしていました。著者ルカにはこんな時でも状況を隈なく観察する心の余裕があったようで、感心させられます。
しかし、風は相変わらず容赦なく吹き付けるし、操縦不能となった船は立ち往生するばかりです。これから先、船も自分たちの運命もどうなるのか全く見通しが立ちません。せめて船の沈没を防ぐために、翌日には積荷を、翌々日には船具までも海中に捨ててしまいました。太陽も星も見えない日が続くうちに、船はどこを目指しているのか、一体今は昼なのか、夜なのかの区別さえつきません。もはや誰も何も語る言葉を持っていません。人々の心には「絶望」という二文字が、次第に現実のものとなりかけています。
その時です。突然パウロは暴風に揺れる船の中で立ち上がり、一同に語りかけました。一応、あの時クレタ島の「良い港」にとどまっておれば、こんなことにはならなかった、と船主、船長、百人隊長たちの軽率さを叱責しましたが、すぐに語調を変えて、@船は失うが、わたしたちは必ず全員助かることになっている。Aそれはただ口から出まかせで言うのではなく、神がみ使を通して与えてくださった確かな約束である。その約束の根拠は、Bパウロは必ず皇帝の前に立つと示されているから。また、C乗員・乗客のすべてはパウロに委ねられたと言うのです。とても囚人の言葉とも思えません。
今、あなたの人生は順風満帆ですか。そうであれば結構なことです。しかし、もし今日、この世の立場や組織やしがらみという歯車の一つに組み込まれながら、不正と悪という暴風の中で翻弄され、行き場を見失い、絶望しかかっている人がいらっしゃるようでしたら、聖書はあなたに約束します。「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうち誰一人として命を失う者はない。」と。しかし、この御言葉は、あなたに、「よーし、頑張ろう」と言わせる為のものではありません。また何かでもって補おうと、身構える必要もないのです。否むしろ、それは、あなたをその危険から救おうとして下さる神の働きを邪魔することになります。あなたの便りとする船は沈んでしまうかもしれません。しかし、それでよいのです。神ご自身があなたの人生を持ち運ぶ船となって、あなたを祝された港へと導いて下さるからです。自分の頑張りや努力ではあなたの人生は決して幸福な港に行き着く保証とはなりません。主である神、イエス・キリストにあなたのこれからの一切を委ねて示されるままに、一歩を踏み出すことです。
今日の御言は、またわたしたちキリスト者という者がこの世にあっていかなる存在であるべきかを教えてくれます。あの時、パウロが暴風に弄(もてあそ)ばれる船の中で、「元気を出しなさい。」と言ったとき、一体どれくらいの人がその言葉の持つ意味と力を信じることができたか知る芳もありませんが、少なくとも、最初にクレタ島の「良い港」で、パウロの忠告に耳を貸さず、無謀な決断をした人々は、いくぶん聞く耳を持つ者となっていたかもしれません。人間の力ではどうしようもない状況にあって、人は初めて人知を超えた神の御言葉に耳を傾けるのです。今、パウロは当事者に一言叱責らしき言葉を与えますが、いつまでもウジウジと彼らを責め立てるようなことをしません。むしろ、彼らを慰めるのです。「元気を出しなさい」と。
神はわたしたちキリスト者を平和な集団の中にではなく、嵐に揺れる小船の中にもがく人々のもとに遣わされるのです。彼らのその苦しみが、仮にそれぞれ自分勝手な思い上がりに原因があるとしても、それについてひとこと忠告する必要はありますが、それをもって神罰と決め付けてはなりません。彼らは神を知らない人々なのです。目標とすべき人生が何かを知らないのです。このような人々に必要なのは、神からの慰めです。「元気を出しなさい」という言葉です。この世にあって、全てを支配しておられる方がどなたであるかを知らしめる機会としなければなりません。カール・マイケルソンという神学者の書いた、「危機に生きる信仰」という本があります。人生には七つの危機があると言います。不安の危機、罪責の危機、疑惑の危機、職業の危機、結婚の危機、苦難の危機、死の危機がそれです。しかし、危機はまた好機でもあるというのです。生きる勇気を失わせる、これら一つ一つの危機が、実は神への信仰に目覚めさせる好機となり、信仰を奮い立たせてくれる願ってもないチャンスともなるというのです。これと同じようなことを一昨日、「東京地方連合のつどい」という集会の中で、富田敬二先生も仰っていました。師は言われます。「伝道するのに困難であるとき、それは実は福音を語るのに最も相応しい時だ。世の中がどんどん悪くなっていく、何と恵まれたことではないか。今こそイエス・キリストの物語を伝える好機なのだ。」と。牧師の息子として生まれ、幼い時から開拓伝道の厳しさ、喜びをその目で見、肌で経験した人の言葉です。先生ご自身も父親と同じ牧師として神に召され、ひたすら開拓伝道の道を歩んでこられた人にして言える、非常に説得力のある言葉でした。
最後に二つの御言葉をご紹介しましょう。
「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」(テモテへの手紙二4章2節)
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたし(イエス・キリスト)は既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書16章33節)
祈りましょう。
天の父なる神さま。御名を崇め讃美します。
木の葉のように激しく揺れる船の中で、だれもが死を覚悟したかもしれない船の中で、一人パウロは、「元気を出しなさい」ということができました。神を信じ、復活のイエス・キリストに希望を置く人の言葉は、いつもそれを聴く者の心を前向きにしてくれます。
天のお父さま、あなたが仙川キリスト教会に今求められているのもこれでした。初めて教会堂の敷居をまたぐ人々に、またわたしたちの周囲にいる人々に、神は生きておられるという確信を与えることです。それには先ずわたしたちキリスト者が、この希望に立つことです。わたし達に喜びがなくて、どうして人々の心を奮い立たせることができるでしょうか。主よ、先ずわたしたちの心を聖霊で満たしてください。復活の主イエスにある永遠の命に溢れさせてください。
私たちの救主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン。