【主日礼拝メッセージの要約】                                 2008年210

望みのために」 

 
使徒言行録28章17-22節

 

高橋淑郎牧師

 この異邦の地ローマで異邦人に福音を伝えることは、パウロにとって無上の喜びですが、彼の心の底には、いつも同胞の救いというヴィジョンが与えられていました。「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。」(ローマの信徒への手紙10:1)。「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられたものとなってもよいとさえ思っています。 」(同書9:1-3)


 「自分ひとりが救われて、圧倒的な数の同胞ユダヤ人が地獄に落ちるなどということは考えたくもない。むしろその反対であってほしい。彼らが救われるために、必要なら、わたしが皆に代わって地獄に落とされてもかまわない。」とパウロは言うのです。そして、彼は自分のところに訪ねてきたユダヤ人に言いました。「イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。」と。イスラエルが希望していることとは何でしょう。イスラエルがすべて救われて永遠の命を得ることなのです。


 皆さん、皆さんはこれくらいの思いでご家族のこと、地域社会の人々のこと、同胞日本民族の救いを祈り願っているでしょうか。確かにそういうキリスト者がこの国にもいました。内村鑑三という人です。多磨霊園に彼の墓がありますが、その墓標に、「わたしは日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために」と刻まれています。キリスト者になった私たちでも、自分はこの世の命が尽きた後、天の御国に召されることを願うのですが、余り好きになれない人や生活の乱れた人、嘘の多い人、社会の秩序を乱すような人にはできるだけ早く地獄に行ってほしいと願っている自分がいるということはないでしょうか。同胞の救いのために、身を挺して祈るパウロの信仰姿勢に学びましょう。

 

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【主日礼拝メッセージ】                                     2008年210

望みのために」 

 
使徒言行録28章17-22節

高橋淑郎牧師

 さしものパウロも、既に60の坂を越えた身には、あの長く苦しい船旅は少々こたえたので、しばし休息の必要を感じたからでしょうか、それともこの間に既にローマにいる教会のメンバーとの接触ができていたのか、本書著者であるルカは使徒パウロが主だったユダヤ人を集めて対話をしたことから書き始めています。それにしてもルカはどうして念願かなったローマ教会の人たちではなく、ユダヤ教指導者たちと会見した内容しか記録していないのでしょうか。もちろんローマ教会の人たちと会わなかったとは考えられません。しかし、ルカは、キリスト者たちよりも、むしろユダヤ教指導者たちとの会見に注目しています。
わたしたちは今朝、このパウロとユダヤ人との出会いを通して二つ、三つのことを学ばせていただくことができます。

 まず、ルカには永年の付き合いから、使徒パウロの心が分かっていました。この異邦の地にあって、異邦人に福音を伝えることは、パウロにとって無上の喜びですが、彼の心の底には、いつも同胞の救いというヴィジョンが与えられていました。それを裏付けるパウロ自身の言葉をいくつか見ることができます。使徒パウロは、かつてキリストのみ言葉を引用して、同胞ユダヤ人に対する熱い思いを次のように取り次いでいます。
「それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。」(使徒言行録26:18)


 また、ローマの信徒への手紙10:1の中で、「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。」と書き送りました。ここに言う「彼ら」とは誰のことでしょう。少し前の9:1−5を見てください。「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられたものとなってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖達も彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。」


 「自分ひとりが救われて、圧倒的な数の同胞ユダヤ人が地獄に落ちるなどということは考えたくもない。むしろその反対であってほしい。彼らが救われるために、必要なら、わたしが皆に代わって地獄に落とされてもかまわない。」とパウロは言うのです。そして、パウロは自分のところに訪ねてきたユダヤ人に言いました。「イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。」と。イスラエルが希望していることとは何でしょう。イスラエルがすべて救われて永遠の命を得ることなのです。
皆さん、皆さんはこれくらいの気持ちでご家族のこと、地域社会の人々のこと、同胞日本民族の救いを祈り願っているでしょうか。確かにそういうキリスト者がこの国にもいました。内村鑑三という人です。多磨霊園に彼の墓がありますが、その墓標に、「わたしは日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために」と刻まれています。キリスト者になった私たちでも、自分はこの世の命が尽きた後、天の御国に召されることを願うのですが、余り好きになれない人や生活の乱れた人、嘘の多い人、社会の秩序を乱すような人にはできるだけ早く地獄に行ってほしいと願っている自分がいるということはないでしょうか。同胞の救いのために、身を挺して祈るパウロの信仰姿勢に学ぶ必要があります。

 もう一つ、学ぶべきことがこの聖書箇所にあります。ローマにいる主だったユダヤ人たちは、ユダヤ教の異端と評されているキリスト教の教えとはいったいどんなものであるか、パウロの口から直に聴きたいと、わざわざ訪ねてきました。エルサレムにいるユダヤ教指導者たちと違ってずいぶん冷静で、紳士的に見えます。
エルサレムのユダヤ人たちは、イエスをこの分派の主謀者と決め付けて、彼を十字架につけてしまいました。そしてその弟子たちにも手を伸ばして、彼らを迫害していました。特にかつては自分たちユダヤ教のリーダーであったサウロが復活のキリストに出会って、キリストの弟子となり、名前もパウロと改めて、キリストの教えを広めていることは赦しがたい罪であるとして、その行くところ、行くところで激しく反対していました。そして、とうとう身柄を拘束してローマに訴え出たのです。こうした経緯(いきさつ)をローマにいるユダヤ教の指導者たちが知らないはずはありません。パウロが伝えるキリストの教えをユダヤ教の「分派」と言いながら、パウロについて悪い評判を聞いていないというのは眉唾です。つまり21−22節は、彼らの外交辞令でしょう。


 しかし、頭から否定しないで、パウロの求めに応じ、聞く耳を持って訪ねてきたユダヤ教指導者の姿勢には一定の評価を与えることができます。パウロは、自分がなぜ囚人として鎖につながれているのか、集まってきたユダヤ人達に説明しましたが、それはローマにいるユダヤ人たちにとって問題ではありませんでした。彼らは、「エルサレムにいるユダヤ人から、パウロについて悪い報告を受けているわけではない。ただ、ユダヤ教から見て、分派とみなされているパウロの聖書理解について詳しく聴きたいのだ。その教えは至るところで反対されているからだ。」と言いました。ここで言われている「分派」という単語ですが、これはまだ少し穏やかな訳し方で、口語訳をはじめ、他の聖書では、「宗派」、また「宗旨」と訳しています。直訳すると、「異端」と言えるほどに過激な表現なのです。「分派」といえば、ユダヤ教から少し分かれたという程度に聞こえます。もちろんユダヤ教にとって、それはそれで見過ごしにできない危険なグループなのですが、しかし、先ほども言いましたように、ここで用いられている単語は、「異端」といえるほどの意味がありまして、ある意味ではもっと不気味な存在として、彼らはパウロが宣べ伝えている教えを捉えているのです。「異端」という場合は、似て非なるものです。主イエスの譬の一つに、「麦と毒麦」の話がありますが、麦の種を蒔いたのに、麦と一緒に毒麦が生えているのを見た農夫の驚きと一緒です(マタイによる福音書13:24−30)。旧約聖書の律法一辺倒の聖書理解であったユダヤ教の人々にとって、パウロの伝える福音は、彼らにとって、麦の姿かたちに似てはいるが、毒麦ではないかという受け取り方です。これは大変なことだ、今のうちにこの毒麦を抜き取ってしまわなければ、というのがこの人たちの本音なのです。外交辞令をもって一件穏やかなものの言いようで、パウロの許に近づいてきたユダヤ人たちですが、パウロの福音理解に対する挑戦状を突きつけているのです。


 皆さん、皆さんは御自分の信仰生活に確信がありますか。「踏み分ける、麓の道は遠けれど、同じ高嶺の月を見るかな」、という曖昧(あいまい)な信仰になっていませんか。キリスト教であっても仏教であっても、他の宗教も詰まるところ、同じ真理を目指しているのだから、どの宗教でも同じだというような神観になっていませんか。主イエス・キリストは言われます。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(ヨハネによる福音書15:1―3)
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。・・・わたしを見た者は、父を見たのだ。」(ヨハネによる福音書14:6,9)

 あのユダヤ教の指導者たちは、パウロの許に来て、キリストの教えの内容を知ろうとしました。皆さんが毎週この会堂に来てそのベンチに座っているのはなぜですか。皆さんもキリストの教とはなんであるのかを知るためではなかったでしょうか。
キリストの教えは、単なる教えで終わりません。聴くあなたの人生を豊かに実らせます。それはどんな味のするどんな実でしょうか。使徒パウロはこの実について教えています。それは御霊と呼ばれている聖い神の霊による実です。


 「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤの信徒への手紙5:22-23)とある通りです。
イエス・キリストにつながるとは、イエス・キリストだけが唯一の救い主、神であると信じる生活のことです。皆さんがイエス・キリストを救い主と信じるなら、皆さんは新しいイスラエルとされるのです(「神に選ばれた者」という意味です)。「イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。」とパウロは言います。
あなたもあなたの残りの人生を、あなたの同胞であるこの国の人々がイエス・キリストによって救われて永遠の命を受けることができるようにという祈りと、望みに生きる人となってください。
祈りましょう。

 

天の父なる神さま。御名を崇め讃美します。
 今日も豊かなあなたの御言とメッセージを感謝します。まことに使徒パウロは自分の命をすり減らし、いや引き換えにしても良いほどの愛で、同胞の救いをあなたに祈り求める人でした。また、そのパウロの招きに応じて訪れたユダヤ教指導者たちは、自分たちの信じているものとどう違うのか、謙虚に聴く耳をもって訪ねて行きました。
こうしたパウロとユダヤ人のやり取りを通して、わたしたちは、あなたの僕、キリストの弟子として、何が足りないのかを学ばされました。私たちは仙川の地にあって、ここに会堂を与えられ、毎週この所で礼拝をささげながらも、友人、知人、近隣、同胞に対する燃える愛がありませんでした。イエス・キリストによる永遠の命に対する望みを人々の心に与えるに十分な伝道ができていませんでしたことを、今、あなたのみ前に告白します。どうか私たちの怠慢をお赦し下さい。そして、これまで以上にあなたと隣人に仕える者と、私たちの心を奮い立たせてください。
救主イエス・キリストの御名によってお願い致します。アーメン。


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