【主日礼拝・巻頭言】                                 2008年10月19日 

「目からうろこが落ちた」    

 
使徒言行録9:10−19

 

山岸 明牧師


 「目からうろこ」と言う言葉がありますが、目からうろこのようなものが落ちたと言う意味は、ある事をきっかけにして急に物事の真相や本質が分かるようになる、また見えるようになると言う事です。


 初めに、サウロにとってうろこが付いた状態とはどのようなものだったのでしょう。サウロは律法を愛し、その掟を守る事を一番に大事にしていました。それが神に喜ばれると思っていたからです。ですから、律法を守らなかったり、また律法による救いはないと言うキリスト者を赦す事が出来ず迫害しました。それはサウロにとって間違った事ではなく、神に喜ばれる正しい行為であると思っていたのです。しかし、ここに大きな落とし穴があったのです。それは、神様に喜ばれることが目的だったはずなのに、いつのまにか律法を守ることが目的になってしまいました。そして神様を信仰しているつもりが、実は自分の行いを信仰していたのです。つまり、目的が変わってしまったのです。
 
 次に、サウロのうろこがどのようにして取れたのでしょう?
 サウロは勇んでダマスコに入ろうとしたとき、神の光によって打たれ「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」4との御声を聞くと共に目が見えなくなってしまいました。今まで雄々しく先頭に立ってキリスト者を迫害していたサウロが、今では手を引いてもらわなければ一歩も進めない状態になってしまった。サウロにとって人生最大の試練の時であります。自分には力も名誉もあった。それが今や人に頼んで手を引いてもらわなければならない、何と弱々しい自分なのか。しかし、サウロにとってこの絶望的状況は、実は神様が備えたうろこを取るための準備の時であったのです。

 最後に、サウロの人生が変わる課程にアナニヤの存在がありました。神がサウロのために先にアナニヤを選ばれていたのです。同じように、私たちが救われた背景にはキリストの十字架、そして、多くの人の祈りや働きがあったことを私たちは決して忘れてはなりません。また、私が選ばれたのは次なる人の救いのための働きとしての神の備えなのです。

 

 音声によるメッセージ

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 【主日礼拝・メッセージ】                               2008年10月19日 

「目からうろこが落ちた」    

 
使徒言行録9:10−19

 

山岸 明牧師

 「目からうろこのようなものが落ちた」と言う意味は、ある事をきっかけにして急に物事の真相や本質が分かるようになる、また見えるようになると言う事です。ですから、目にウロコがあると言う時は、物事がぼやけてしまい、よく見えていない状態になり、本質が見えず間違った道に進んで行くのです。

 初めにパウロにとってウロコが付いた状態とはどのようなものだったのでしょう。
サウロは律法を守る事に関しては右に出る物がないほどでした。だから律法を守る事を一番に大事にしていました。それが神に喜ばれると思っていたからです。ですから、律法を守る事を一番にしない、また律法による救いはないと言うキリスト者を赦す事が出来ず迫害したのです。それはパウロにとって、決して間違った事ではなく、神に喜ばれる正しい行為であると思っていたのです。しかし、ここに大きな落とし穴があったのです。どうしてでしょうか?それは目的がいつの間にかすり変わってしまったのです。神様に喜ばれることが目的だったはずなのに、いつのまにか律法を守ることが目的になってしまった。そして神様を信仰しているように思っていたのに、実は自分の行いを信仰してしまっていた。目的が変わってしまったのです。皆さんの記憶に残っていると思いますが、2005年4月に起きたJR福知山線の脱線事故(106人が死亡し、551人が負傷)そのときに過密ダイヤが問題になりました。はじめは利用されるお客様のためにが目的でした。しかし、その目的が過密ダイヤを守るということが目的になってきました。そして、最後にはお客様の安全より、ダイヤに穴をあけないようにする、つまり、自分の評価が大切になっていってしまった。このように物事の本質が分からず目的がすり変わってしまったのです。しかし、これはパウロのこと、JR西日本のことだけではなく、私たち一人一人にも同じことが言えるのです。目についたウロコによって、何が正しいのか、真実が見えなくなってしまうのです。マタイ福音書に「あなたは、兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気がつかないのか」7:1と言われているように、自分の丸太に、うろこに気がついていないのです。「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになる」7:5このようにウロコが付いた状態とは、自分がやりたいと思うことをして、自分がしたいことをする。全て自分で決め、自分の生きたいように生きる。全てが自分、自分、自分中心、ウロコとはまさに自己中心を守る為の砦であります。

 次にパウロのウロコがどのようにして取れたのか?
 パウロは勇んでダマスコに入ろうとしたとき、神の光によって打たれ目が見えなくなってしまいました。今まで雄々しく先頭に立ってきたパウロでしたが、今では手を引かれなければ進めない、自分では何もできない子供のような状態になったのです。パウロにとって人生最大の試練の時であります。このまま目が見えないかも知れない、自分には力も名誉もあった。それが今や人に頼んで手を引いてもらわなければならない、何と弱々しい自分なのか。しかし、パウロにとってこの絶望的状況は、実は神様が備えたウロコを取るための準備のときだったのです。とき同じくして聖霊はアナニヤにも現れます。アナニヤは神から既にキリスト者として召されていました。神は「迫害を加えようとやって来るサウロの所へ行け」と言われた。アナニヤはこの神の言葉を聞いたとき耳を疑いました。主に従う者を牢に入れ殺そうとしている人の所に行き、手をかしてやりなさいとは一体どう言う事か・・アナニヤは、「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも御名を呼び求める人を全て捕らえるために祭司長たちから権限を受けています」と答えた。パウロの所へ行けばステパノのように殺されるかも知れない、そんな無茶なことを言われるのですか、と抗議をしたのです。しかし主は「行け。その御用をするためにお前を一足先に召したのだ」と言われました。クリスチャンが先に召されたという意味はここにあるのです。使徒パウロが誕生した過程には、神と、また先に召されキリスト者なったアナニアとの共同作業があったのです。「アポロと何ものか、また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ、しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者とは一つです。」一コリント3:5〜 ダマスコ途上のこの経験はパウロにとって実は大きな恵であったのです。彼は目が見えなくなったこと、そして、そこにアナニヤがいたこと、神は怒り狂っているパウロに一つの聖なる経験をさせたのです。

 サウロがパウロとして生まれてくるために、また、サウロのウロコが落ちるために、アナニヤは先に選ばれていた。この選びというのは神のご計画の中で大きな実を結ぶために選ばれていたのであります。アナニヤはその神の言葉を聞いて、人間の判断では悲劇に終わると見えたパウロに訪問をした。一人の人が新しく生まれてくるのには、このように多くの人の祈りや、信仰や、決断が伴っているのであります。私たちも同じことが言えます。私たちが今ここに集う事が出来るのは、そして、神の恵みの中に居られるのはイエス様の十字架の愛と、また多くの人の祈りと働きがあったからなのです。私たちは決してその事を忘れてはなりません。更に、私たちは先に選ばれた者として、アナニアと同じように神の次なる救いのご計画のための働き人としてあるわけです。植える者と水を注ぐ者とは一つです。とあるように、それぞれに与えられた賜物を生かしつつ伝道をしていかなければなりません。そして、まだまだ取りきれていない「うろこ」を御言葉によって落としてもらい、且、先に恵に預かった者として伝道の働きを成して生きたいと思います。

  

 

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