【主日礼拝・巻頭言】 2008年11月9日
『豊かな人生』
山岸 明牧師
豊かな人生を送るためには、空しい人生を送らないようにする事にもなります。人は他人よりも多くの物を手に入れたら空しい人生を送らなくてすむのではないかと考えますが、人生、そんな単純なものではありません。昔、ある王様がこの世のあらゆる贅沢をしてあることに気が付いたと言います。それは『人生とは矛盾と謎に満ちている。何よりもこの世の全てが「空しい」と語ります』(コヘレトの言葉)、つまり、この社会には豊かな人生を送れるものは何もないと言うのです。
初めに聖書の語る空しさとは何でしょうか
空しさとは、形だけで中身がない事、確実ではない事、頼りにならない事を信じて追い求めることです。聖書は「主なる神は、土の塵で人をかたちつくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きるものとなった。」(創世記1:6) 神は私たち人間を「空しい」人生を送る為に創造されたのではありません。全ての人が神様から必要とされ、愛され、豊かな人生を歩むために存在しているのです。「君は愛されるため生まれた」という賛美歌がありますが、私達は愛される為に生まれ、幸せになる為に生まれ、必要とされて生まれて来たのです。その私たちが空しい存在になってしまうのは神様の望まれる事ではないのです。
次に空しさから喜びへの道は何でしょうか
私達はこの社会の中で生きていると、すぐに飢え渇いて空しさを覚えます。これからの老後、所得、会社、教育、治安、考えれば嫌になってしまう事もあります。そういう中にあって自分の命の根拠、源をどこに置くべきか考えなければいけません。今日のヨハネの箇所では飼い主を失った羊は生きていけないと教えています。ヨハネは羊飼いと羊の譬えを持って神様と人間の関係を教え、神は私たちが空しさの中にとどまらないように、そして「空しさ」から「豊かさ」への導き手はイエス・キリストであると言います「わたしは良い羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」(11) 神がどれほど私たちを大切な存在としておられるか、その愛の豊かさは、イエス様が命を捨てる事において示されたのです。イエス様こそ私たちにいつまでも涸れる事のないその泉となって豊かに私たちを潤おして下さるのです。
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【主日礼拝・メッセージ】 2008年11月9日
『豊かな人生』
山岸 明牧師
私たちの生きる原動力の中に「喜び」があります。喜びは私たちに生きる力を与えてもくれます。しかし、問題は喜びを得られるのであれば、善であれ、悪であれ、人は喜びを手に入れようとします。また、目の前の喜びが得られた時に、「ああ、良かった」だけで終わらず、次なる喜びを求め始めます。人はこの「喜び」が見付けられなければ何となく空しさを感じたり、生き甲斐を感じなくなってしまう事もあります。これを実感している人は多いと思います。故に、私たちの人生、喜んで生きる事が出来たらどんなに幸せでしょう。でもその喜びが何かを得なければ喜びがなくなってしまうものであるならば、本当に空しい人生になってしまいます。では、私たちが「空しい人生を送らないために」どうしたら良いのでしょうか。それは簡単、人よりも多くの物を手に入れること、そうすれば空しい人生を送らなくてすみます。本当にそうでしょうか?人生、そんな単純なものではありません。人生の豊かさを物に求めた時代はまたたくまに去っていくのです。
旧約聖書にコヘレトの言葉『伝道の書』があります。1章1節にこう記されています。「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」ダビデの子ソロモン王ではないかと言われていますが、はっきりしたことは分かりません。このコヘレトが人生を観察した結果ある事に気づいたといいます。それは『人生とは矛盾と謎に満ちている。何よりもこの世の全てが「空しい」と語ります』。コヘレトは、自分が求めた喜びを全て得たが、「全てが空しかった。」と言っています。多くの人たちは、自分の夢を達成出来ずにこの世を去っていきます。コヘレトの言葉を聞くと、何を贅沢なことを言っているのかと言いたくなってしまいます。コヘレトは一体、何を見て、また何を手に入れて空しいと言ったのでしょうか、1、この世の空しさ、人生は同じことの繰り返し何の変化もない、いかなることも一時的なもので、人々はすぐに忘れてしまう。2、知恵は空しい、知恵によって何でも解決できると思っていた。しかし、知恵が増せば増すほど、人生の問題点や矛盾が一層よく分かるようになった。そして、知恵の限界が示された。3、快楽の空しさ、快楽は自分の心の渇きの癒し、満足を与えてくれる事を期待して肉体的欲望を満たし、浴びるほどお酒を飲んだが満たされなかった。4、富の空しさ、自分の能力と力と名声を誇示しようと、神殿や宮殿を建て、軍備を固め、多くの富みを得ても心ハ満たされなかった。この世のすべての喜びと思われるものを手に入れたが、彼に残ったものは、空しさだけでした。またコヘレトは自分の事だけではなく、この世の諸々の出来事を見て悟った。この世でどんなに善を積んでも、また、どんなに悪事を働いても、同じように死が来る。人生がこれほど矛盾に満ちているのに、人生の意味や目的など見出せるであろうか。もはや人間が決められる事ではない。運命に委ねるしかない。しかし、それもまた空しい。どうでしょうか?この様な事を私たちも一度や二度、考えた事があると思います。自分は何のために生まれてきたのか?自分がなぜ存在するのか?そして多くの人がその答えを見つけられず、今なお空しく人生を送っているのです。「コヘレトの言葉」が明らかにしているのは、「この世で生きる空しさ」です。この世に生きる喜びがあるのか?今、この満たされない心を満たすものがあるのか?そしてコヘレトが最後に得た答えは「全てに耳を傾けて得た結論。神に心を向けよ、これこそ人間の全て」12:13
つまり、どんなにこの世に喜びを求めても、神を知らない人生は全てが空しい。空しさとは、形だけで中身がない事、確実ではない事、頼りにならない事を追い求めることです。「主なる神は、土の塵で人をかたちつくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きるものとなった。」創世記1:6 神の霊を受けて人は本当に生きる者となり、豊かな人生を歩む者となるのです。「コヘレトの言葉」が教えているのは、空しい人生の中で生きる事から脱却し、神を知り、次なるステップに進む事です。それは豊かな人生を歩むことです。神は私たち人間を「空しい」人生を送る為に創造されたのではありません。全ての人が神様から必要とされ、愛され、豊かに生きるためなのです。「わたしの目には、あなたがたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」イザヤ43:4 この愛を知ることです。では、私たちが「豊かな人生」を歩むために具体的にどうしたら良いのでしょうか?今日のヨハネの箇所では飼い主を失った羊は生きていけないと教えています。聖書はキリストと私たちの関係をいろいろな形で示しています。ぶどうの木と枝、花婿と花嫁、そして今日の羊飼いと羊、ヨハネは羊飼いと羊の譬えを持って神様と人間の関係を教え、神は私たちが空しさの中にとどまらないように、そして「空しさ」から「豊かさ」への道を示しています。その導き手はイエス・キリストです。
良い羊飼いは自分の羊を全部知っている。顔の特徴や泣き声、また性格まですべてご存知である。更に「神はあなたがたの髪の毛まで1本の残らず数えておられる」マタイ10:28〜また良い羊飼いは羊の世話をし、水場に連れて行って水を飲ませ、青草の生えているところへ羊たちを導いて食事をさせる。また、狼から羊を守り、羊のために命まで捨てる。良い羊飼いはそれほど羊を愛し、常に心にかけて下さっているのです。この良き羊飼いであられるイエス様の豊かな愛の中で過ごすとき、本当の満たしの中で喜び生きることが出来るのです。「わたしは良い羊飼いである。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる」。神がどれほど私たちを大切な存在としておられるか、その愛の豊かさは、イエス様が十字架において示してくださいました。イエスは自らの命の代わりに、私たちに生きる命を与えてくださったのです。そこに、イエス様と私たちの繋がりがあるのです。この繋がりから離れてしまったとき、人は道に迷い、飢え、力尽き、空しく生きてしまうのです。私達はこの社会の中で生きていますと、すぐに飢え渇いてしまいます。また、空しさも覚えます。これからの格差社会(老後、所得、会社、資産、教育、治安)に不安も覚えますし、嫌になってしまう事もあります。そういう中にあって自分の命の根拠、源をどこに置くべきか考えなければいけません。人は生きる目的が失われると、生きる意欲が失われてしますからです。イエス・キリスト、そこに泉を求めて行く時、イエス様はいつまでも涸れる事のない泉となって私たちを豊かに潤おして下さいます。空しさから豊かさへの道とは、「わたしが来たのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」。この、イエス・キリストを信じることです。
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