【主日礼拝 メッセージ 】                                                             2010年7月25日 

『主を見つめつつ』

使徒言行録 7:54 - 60  

 イエス様の弟子であるステファノが捕らえられ裁判を受けているとき、聖霊に満たされ叫んだ「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのも見える」(56)。これを聞いた人たちは、神を冒涜したといって怒り、ステファノを殺そうと連れ出して石を投げました。そのときステファノは二つの祈りをしました。
「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(59-60) と叫んで眠り(死)につきました。

  この祈りは、イエス様が十字架の上で息を引き取る前に語られた御言葉と同じです。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46) 「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)。ステファノは、イエス様の真似をしたのでしょうか。そうではありません。ステファノはイエス様を見上げたとき、祈りも勇気も力もイエス様から与えられたのです。

  私たちはイエス様に目を向ける事をしないで、周りの状況にばかり目を奪われる事が多くあります。周りにいる人たち、うまくいかない状況、不安や心配など、そのようなものばかりに目を奪われてしまい、いつの間にかイエス様を見る事をすっかり忘れてしまうのです。教会の中でも、あるいは家庭の中でも、職場、学校などでも、いろんな問題があって、うまくいかない事があると、心の重荷となってその事ばかりを考えて、悲観して落ち込んで、ついつい下を向いてしまいます。でもイエス様を見上げてみよう、そうしたら何かが変わりはじめます。張りつめた心が和らぎ、勇気と希望が湧き上がり力が出てきます。どんなに苦しい時でも大変なときでも、イエスを見上げて生きる事です。

  ステファノが自分を迫害する者に対し呪いの祈りではなく、赦しを祈ることができたのは、イエス様を見つめ、イエス様に自分を委ねたからです。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」(ローマ12:19)。そこは神の領域です。神の領域に入り、それを行おうとするとき、私たちは逆に苦しむのです。主を見つめつつ歩む事は、主の教えに従って生きる事です。それは神の栄光を現す生き方です。


 

 
福音メッセージ一覧
戻る
                  

福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む